73年前にデビューから10試合連続安打を記録した近鉄・伊藤利夫
北海道日本ハムファイターズの加藤豪将が"NPBデビュー戦"から続けてきた連続試合安打が「10」でストップした。
6月8日、本拠地・エスコンフィールドでの対広島カープ戦、加藤豪は「2番・一塁」で先発出場したが、レフトフライ、セカンドゴロ併殺打、三振、三振に倒れ、初出場から続けてきた連続試合安打がついに止まった。打率も.386に下げた。
加藤豪は今日の試合で安打を放てば、NPB新人の開幕からの連続試合安打の記録を73年ぶりに更新することができたが、叶わなかった。
72年前、1950年といえば、日本の職業野球がセントラルとパシフィックの2リーグに分立したエポックメイキングなシーズンだが、この年、記録をつくったのは、ノンプロを経て新しい球団に、奇しくも加藤と同じ28歳で入団した「オールドルーキー」であった。
日本の職業野球、2リーグに分立
1945年8月15日、日本の敗戦からわずか3か月後、11月23日に明治神宮野球場で、職業野球の「東西対抗戦」が行われた。
翌1946年から、日本野球連盟(現在の日本野球機構)は、8球団で本格的にシーズンを再開、日本の職業野野球は娯楽を欲する国民と、GHQの占領政策の後押しもあり、急速に再興を遂げることになる。
1949年、日本野球連盟の連盟使用者評議会で連盟コミッショナー職が新設され、元読売新聞社長であり、読売ジャイアンツのオーナーで、連盟名誉総裁の地位にあった正力松太郎が初代コミッショナーに就任した(後日、辞任)。
正力は職業野球のチーム数を段階的に増やし、やがて2リーグ制に移行するという、「正力構想」をぶち上げた。
この米国のメジャーリーグに範を得た2リーグ制の構想は早くも動き始め、読売新聞をライバル視していた毎日新聞社が加盟に名乗りを上げた。
これを皮切りに、職業野球への参入を目指し、加盟申請を行う企業が相次ぎ、「1リーグ10球団」による緩やかな拡張を標榜した「正力構想」は頓挫、正力自身も「2リーグ制」へ傾き始めた。
その結果、1949年11月、太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)は毎日を中心とした7球団で発足し、セントラル・リーグは当初、巨人を中心とした4球団(後に8球団)となった。
その後、リーグの間で球団誘致の駆け引き、そして球団・リーグの間で選手の引き抜き合戦に発展、泥仕合いと化していった。
1950年のシーズンは、セントラルが8球団、パシフィックが7球団で開幕にこぎつけた。しかし、チーム間の選手の引き抜きという「混乱」はその後も続いた。
近鉄パールスの誕生、東京六大学リーグOB軍
近鉄パールスは1949年、関西私鉄の大手である近畿日本鉄道を母体に創設された。
近畿日本鉄道の専務取締役で実質のトップだった佐伯勇が職業野球への参入を決め、同年11月にパシフィック・リーグに加盟することになった。
近鉄はラグビー部を所有し、かつ佐伯自身はラガーマンだが、ラグビーでは儲からないと思い、職業野球への参入を狙っていた。
以後、近鉄パールスが近鉄バファローズに改称した後も、佐伯は30年ほど、近鉄球団のオーナーを務めることになる。
実は近鉄が職業野球の球団を持つのはこれが初めてではなかった。
「南海軍」を運営する南海鉄道と関西急行鉄道と合併して1944年6月より近畿日本鉄道(近鉄)となったため、近鉄は南海軍のオーナーとなり、球団名を「近畿日本軍」と改称したが、その後、1947年6月、旧南海鉄道の全事業が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、「近畿日本軍」の親会社も南海電気鉄道へ移行したため、近鉄の手を離れた(この時、球団名は「南海ホークス」に変更となった)。
近鉄の新球団の愛称は公募を経て「パールス」に決まったが、近鉄沿線の伊勢志摩で真珠の養殖が盛んであったことにちなんだものだ。
監督には、日大三中、法政大学の野球部監督であった藤田省三が就任した。
パールスはチーム編成に遅れを取り、既存の球団から有望な移籍選手が望めず、やむなく藤田の伝手を頼り、母校の法政大学野球部出身者、すなわち藤田の”教え子”を中心に選手を入団させた。
その中には、藤田省三が率いた日大三中、法政大学でエースを務めた関根潤三の名前もあった。
その結果、パールスの第1期の選手25人のうち、法政大学野球部出身者がなんと11名を占めた。プロ経験者は7名を数えたが、最年長の40歳のベテラン、苅田久徳(コーチ兼任)を始め、5名が法政大学出身であった。
1950年3月12日、近鉄パールスの開幕戦の先発メンバーは以下の通りである。
先発メンバー9人のうち、法政大学が4人、明治大学が2人、立教大学が1人。
先発投手の黒尾重明以外は、東京六大学野球リーグに出場した選手であり、かつ法政大学から入団した島方金則以外はノンプロか職業野球の他チームからの移籍者であったが、さながら、法政・明治・立教のOB連合軍と言ってもよかった。
この先発メンバーから漏れた選手の中に、早稲田大学野球部出身の選手がいた。それが外野手の伊藤利夫である。
近鉄パールス創設メンバー・伊藤利夫、28歳でプロ入り
伊藤利夫は1922年生まれ、岐阜県出身で、旧制岐阜中から早稲田大学第2高等学院に入学すると、野球部に入部した。
1943年10月16日に行われた出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)では「8番・右翼」で先発出場している。
早稲田大学卒業後は、地元・岐阜で1924年に創業されたゼネコンである大日本土木に入社した。
大日本土木は1946年に硬式野球部が結成され、この年に行われた第17回都市対抗野球大会に初出場・初優勝という快挙を成し遂げた(翌年1948年の第18回大会も優勝し、戦後初の連覇チーム)。
伊藤はその時の連覇メンバーに名を連らね、岐阜中の5年上の先輩でもある加藤春雄と共に、近鉄パールス入りすることになる。
近鉄は選手集めには苦労したものの、外野手には、前・大陽ロビンスの田川豊、前・中日ドラゴンズの森下重好、そして伊藤のノンプロ時代の先輩でパールス初代主将となった加藤春雄というメンバーがそろっていた。
伊藤はその選手層の厚さに阻まれ、開幕スタメンこそ逃したが、開幕戦でいきなり出番がやってきた。
3月12日、近鉄パールスの記念すべき最初の試合となった、藤井寺球場での対毎日オリオンズ戦。
2-6と4点ビハインドで迎えた9回裏、一死走者無しで9番・投手・黒尾の代打として伊藤利夫が登場した。
対するは毎日の先発の野村武史で奇しくも、伊藤と同じ岐阜出身で3年上の先輩だった。
伊藤は野村から二塁打を放ち、見事に初打席初安打をマークした。
翌日の試合は伊藤の出番がなかったものの、3月15日の対大映スターズ戦(大須球場)でも伊藤は途中出場で中堅の守備につき、1打数1安打。
さらに続く3月18日の対毎日オリオンズ戦(後楽園球場)でも途中出場でプロ初の三塁打を含む2打数2安打。これで初打席から4打数4安打、打率10割。
折しも、センターのレギュラーで打順3番を打つ主将の加藤春雄が開幕から11打数1安打、打率.091と絶不調であった。
こうなれば、藤田監督も背に腹は代えられない。
3月20日、対南海ホークス戦(西宮球場)で伊藤はついに「3番・中堅」で初の先発出場を果たした。5歳上の主将である加藤を押しのけて、実力で勝ち取ったスタメンであった。結果は二塁打を含む4打数1安打。
さらに翌日3月21日の対阪急ブレーブス戦も「3番・中堅」で先発出場し、4打数4安打、プロ初打点(1打点)、1四球、1盗塁と大暴れ。
伊藤は28歳のオールドルーキーとして挑んだ職業野球の世界で瞬く間に、レギュラーの座を掴んでいた。
伊藤利夫、デビューから10試合連続安打、12試合連続出塁
伊藤はその後も、先発で毎試合、安打を積み重ね、3月31日、対毎日オリオンズ戦(後楽園球場)で5打数3安打。
伊藤はついにデビューから10試合連続安打をマークし、再び打率.500に戻した。
伊藤は4月2日、対毎日戦でも先発出場したが、この日は1四球を選んだものの、3打数ノーヒット。ついに連続試合安打は「10」でストップした。
4月3日の大映戦では5打数2安打を放ち、連続試合出塁は「12」に伸びたが、次の4月9日の西鉄ライオンズとのダブルヘッダー第1試合ではノーヒットに終わり、デビューからの連続試合出塁もストップした。
しかし、伊藤はその後も打撃好調で、4月20日の対毎日戦(西宮球場)ではプロ初打席で対戦した同郷の先輩である野村武史から、今度はプロ初となるホームランを放った。
近鉄パールス、序盤から失速で初年度は最下位
近鉄パールスはシーズン序盤こそ、健闘していたが、5月に5勝11敗と大きく負け越し、Bクラスに転落すると、8月には2勝10敗3引分けと息切れし、最下位に転落した。
結局、120試合で44勝72敗(4引分け)、勝率.379で首位・毎日オリオンズから37.5ゲーム差をつけられて最下位・7位となった。
打線は大陽ロビンスから加入した森下重好・田川豊が引っ張った。森下重好はほぼ4番を打ち、30本塁打、93打点とキャリアハイの成績で期待以上の働きをし、田川豊も主に一番打者として打率.280、24盗塁をマーク。
主将の加藤春雄も後半、持ち直して打率.260、8本塁打、弟の加藤政一も11本塁打とまずまずの活躍をした。
しかしながら投手力が弱く、ノンプロ・盛岡鉄道局から入団した沢藤光郎がチームトップの50試合に登板し、先発・リリーフで300イニング超を投げ、防御率3.70(パ・リーグ18位)、18勝を挙げたが、19敗を喫した。
プロでもっとも実績のあった黒尾重明(東映フライヤーズから移籍)は防御率3.34とチームトップで、パ・リーグ8位に食い込み、自身、新人から5年連続となる二桁勝利を挙げたものの、12勝21敗と大きく負け越した。
藤田省三監督の秘蔵っ子であり大卒新人の関根潤三も先発・リリーフで26試合に登板したが、4勝12敗、防御率5.47と奮わなかった。
伊藤利夫はシーズン前半こそ、先発出場が多かったが、7月以降はスタメンを外れるようになり(理由は不明)、代打・守備固めでの出場が主となった。
それでも8月下旬までは打率3割をキープしていたが、9月に入って成績が下降し、終わってみれば、72試合に出場し、188打数51安打、1本塁打、打率.271、9盗塁。
来季こそは外野のレギュラーを奪ってやろうと意気込んでいたに違いない。
プロ生活わずか3年、30歳で現役引退
伊藤は翌年1951年はコーチ兼任となったが、外野のレギュラーに定着するどころか、わずか25試合の出場に留まり、しかもほとんどが代打か守備固めでの出場となった。チームも2年連続で最下位となると、伊藤はオフに阪急ブレーブスに移籍となった。
1952年のシーズン、阪急でも23試合の出場のみでそのオフに30歳で現役を引退した。
通算120試合出場、233打数58安打、打率.249、1本塁打、23打点。
わずか3年の職業野球生活だった。
近鉄パールスは初年度1950年から3年連続でパ・リーグ最下位となると、藤田監督が退任した。後任の芥田武夫監督が就任した1953年まで4年連続で最下位となったが、1954年、ようやく4位となった。
第二の人生は母校の野球部監督で甲子園へ、あの名捕手・名将を育てる
伊藤は引退した翌年1953年から、母校である岐阜高校野球部で監督を務めることになった。
岐阜高校の前身である岐阜県第一中学校は1873年(明治6年)創立で、今年2023年に創立150周年を迎えるが、1884年(明治17年)創部の硬式野球部は日本で最古の野球部といわれる。
岐阜県下でも有数の進学校であるが、1915年の第1回全国中等学校優勝野球大会から2018年第100回全国高等学校野球選手権大会まで毎年地区予選に参加しており、全国でも15校の内の1校で、岐阜県内では唯一である。
伊藤は監督就任2年目となる1954年夏、3年生の捕手兼主将の森昌彦(読売ジャイアンツ元選手、西武ライオンズ元監督)らを率いて、全国高校野球選手権大会に出場したが、1回戦で敗退した。
翌1955年の全国高校野球選抜大会にも出場するが、やはり1回戦敗退で、「甲子園1勝」は遠かった。
伊藤の教え子の森は家庭の事情で大学には進まず、在学中に読売ジャイアンツの入団テストを受け、合格した。
森は入団後、ジャイアンツのV9を支える名捕手となり、現役引退後は西武ライオンズの監督として日本一に8度、導き黄金時代を築いた。
伊藤の現役引退が遅れていれば、高校球児・森との出会いもなく、森の才能が開花していたかどうかは分からない。
伊藤利夫はプロ入りして出場した最初の10試合でその後、73年も破られていない記録をつくった。
そして、いま加藤豪将の活躍によって、忘れられていた73年前の伊藤利夫の記録が蘇ったのである。
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