【訃報】ドジャースのトミー・ラソーダ元監督、移民の子が指導者として掴んだアメリカンドリーム
トミー・ラソーダ氏、93歳で死去
米国MLBのロサンゼルス・ドジャースの監督を務めた、トミー・ラソーダさんが1月7日(米国時間)に亡くなった。93歳だった。それを受けて、日本でも縁のある野球人たちが続々と追悼のコメントを寄せている。
ラソーダさんは日本の野球ファンにも有名な存在だが、それは、野茂英雄さんが1995年にドジャース入りした時に、監督を務めていたことが契機だろう。日本の球界を追われるように米国に移籍した野茂さんを、ラソーダさんは「ノモは私の息子だ」と言ってかわいがった。イタリア系のラソーダさんは、その風貌と底抜けに明るいキャラクターで、日本のテレビCM に登場するようにもなった。
48歳でドジャース監督に就任、21年間で通算1599勝、ワールドシリーズ2度制覇
ラソーダさんは48歳のとき、1976年に名門ドジャースの三塁コーチから監督に就任した。前任のウォルター・オルストン監督がシーズン途中で退任したことを受けてだが、オルストン監督はドジャースの監督を20年以上も務め、4度のワールドシリーズ制覇を遂げた名将である。
ラソーダさんは現役時代、ドジャースに在籍した左投げの投手だったが、メジャーリーグでは1勝も挙げていない。3年間で26試合に登板し、0勝4敗1セーブ。それがラソーダさんのMLBでの成績である。そんなラソーダさんが名門ドジャースの監督を長きに渡って務められたのは、その人心掌握のうまさであろう。ラソーダさんは現役時代から、面倒見のよい兄貴分のような存在だったという。ドジャースのスカウト、マイナーリーグのコーチ、監督、そしてメジャーのコーチ、監督と、野球人としての第二のキャリアを駆け上がったが、ドジャースの当時のオーナーである、ピーター・オマリーが掲げるファミリー経営のビジョンにマッチした。
ラソーダさんは監督に就任して実質1年目の1977年には早くもリーグ優勝、1981年には宿敵のニューヨーク・ヤンキースを倒して、自身初のワールドシリ―ズ制覇を果たした。21年間の監督生活で4度のリーグ優勝に、2度のワールドシリーズ制覇(1981年、1988年)、そして通算1599勝を挙げた。これはMLBで歴代15位である。
バレンゼラ、野茂英雄、ピアザなど、新人王を9人も輩出
そして、ラソーダさんが監督に就任している期間、1979年から1982年まで、そして、1992年から1996年まで、ドジャースはナショナル・リーグの新人王を9人も生み出した。ドジャースの新人選手がこんなに多く選出されたのは単なる偶然ではないだろう。そのうちの二人が、メキシコからやってきたフェルナンド・バレンゼラと、日本から来た野茂英雄さんだった。
メキシコでスカウトされたバレンゼラは米国に来た時、わずか3つの英単語しか話せないと言われた。ラソーダ監督は、そのバレンゼラが2年目のシーズンを迎えた1981年に開幕投手に抜擢した。そこから開幕8連勝を挙げると、ドジャースタジアムにはメキシコ系移民の人々がバレンゼラを一目見ようと殺到したという。「フェルナンド・マニア」という流行語を生み、社会現象となった。バレンゼラは、その年の新人王とサイ・ヤング賞を同時受賞し、ラソーダさんが指揮して初めてのワールドシリーズ制覇に貢献した。
野茂英雄さんがマイナー契約でドジャース入りした時、1995年5月の初登板からなかなか勝利を挙げることができなかった。しかし、ラソーダ監督は野茂さんを辛抱強く、先発ローテーションで起用し続け、ついに登板7試合目にして、野茂さんはメジャー初勝利を挙げた。勝利の瞬間、ラソーダさんがベンチで野茂さんに抱きつき、一緒に勝利を喜ぶシーンは日本でも何度も繰り返し、放送された。
そこから野茂さんは勢いづき、6月は先発登板した試合で6連勝を挙げた。そして初勝利からわずか1か月後、野茂さんはルーキーながら、オールスターに選出され、先発マウンドを任されたのである。「トルネード投法」の野茂さんは、同じく個性的な投球フォームだったバレンゼラの再来ということで、「ノモ・マニア」という造語が生まれた。ロサンゼルスの街には、野茂さんの「背番号16」の入ったドジャースのTシャツやユニフォームを着たファンであふれた。前年、選手会のストライキで野球ファンがMLBにそっぽを向きかけたところに、野茂さんの存在は救世主と言われた。
野茂さんが海を渡ったとき、ドジャースを選んだのは本当に幸運だった。勿論、ドジャース入りを決めたのは、当時のオーナーのピーター・オマリーさんの人徳もあるが、現場で野茂さんを支えたのはラソーダさんである。
両親がイタリア系移民だったラソーダさんは、異国人が米国でやっていく苦労を十分にわかっていたに違いない。ラソーダさんは、野茂さんに「オレたちはファミリーだ。困ったら、何でも言ってほしい」と告げたという。
ちなみに、ドジャースで野茂さんとバッテリーを組んだ、マイク・ピアザも1993年に新人王を獲得している。ピアザは高校、大学とほぼ全く無名の選手だったが、イタリア系移民の血を引く父親がラソーダさんの友人だったことから、ドジャースがドラフトで下位指名した。ピアザはラソーダさんのコネ入団と揶揄されながらも、MLB屈指の強打の捕手に成長し、捕手としてMLB最多となる427本塁打を放った。そして現役引退後、MLB史上、ドラフトで最も下位指名からの野球殿堂入りを果たした。
ラソーダさんは、こうして何人もの選手たちがアメリカンドリームを掴むのを手助けしたことになる。
山本昌、ボビー・バレンタインも薫陶を受ける
野茂さんより前、中日の山本昌さんも、1988年にドジャース傘下のマイナーチームに野球留学した縁で、ラソーダさんに励まされている。山本さんは中日に入団後、4年間、一軍で勝利がなかったが、ドジャースへの留学で生まれ変わり、その後、帰国して一流の投手の道を歩んだ。巨人が1961年から、中日が1988年から、ドジャースと同じく、フロリダのベロビーチでキャンプを行ったこともあり、長嶋茂雄さん、星野仙一さんなど、日本のプロ野球人とも親交が深かった(星野仙一さんは、現役引退後の評論家時代、ドジャースの当時のオーナーであるピーター・オマリーに食い込んでいて、中日の監督に就任するやいなや、ベロビーチキャンプを実現させた)。
ロッテの監督を務めたボビー・バレンタインさんも、マイナーリーグ時代、監督だったラソーダさんの薫陶を受けた一人だ。バレンタインさんは、ドジャースのスカウトを務めていたラソーダさんに見出され、1968年にドラフト1巡目指名を受けた。ケガに泣かされ選手としては大成しなかったが、ラソーダさんを師と仰いで、自らも指導者となった。そして、1985年から35歳の若さでMLBの監督となり、ラソーダさんと同じ背番号「2」を着け続けた。2001年、MLBオールスターゲームで監督を務めた際、特例を認めさせて、同じユニフォームを着たラソーダさんをベンチに迎え入れた。その後、ロッテ監督に復帰して6年目の2009年には日米通算1600勝に達し、師の監督勝利数を追い抜いた(最終的に日米通算1679勝)。
ラソーダさんは持病の心臓病の悪化もあり、1996年のシーズン途中で、監督の座を降りた。その直後、1997年に野球殿堂入りを果たした。ラソーダさんが監督時代に着けた背番号「2」は、ドジャースの永久欠番となった。ドジャースのオーナーのオマリー一族が球団経営から手を引いた1998年からはドジャース球団のバイス・プレジデント、その後、特別顧問に就任し、ドジャースの「顔」として君臨した。
シドニー五輪で米国代表監督として金メダル獲得
プロ参加が許された2000年のシドニー五輪では、ラソーダさんは73歳の高齢をおしてマイナーリーガーで構成された米国代表を率いた。米国代表は、松坂大輔(西武)、中村紀洋(当時近鉄)らを擁する、アマ・プロ混合の日本代表などを破り、金メダルを獲得した。「20世紀最高の監督」という称号も手にした。2008年には、日米の野球の架け橋となった功績を称え、日本政府から「旭日小綬章」を叙勲されている。
記憶に新しいのは、2017年のWBC、ドジャースタジアムで行われた準決勝の日本対米国戦で、野茂英雄さんとともに、始球式に姿を見せたことだ。マウンド横で、ラソーダさんが見守る中、野茂さんは、キャッチャー役の鈴木誠也(広島)に向かって、少し暴投気味のボールを放った。そして、3人は記念写真のフレームに収まった。その後、野茂さんはラソーダさんを支えながら、満場の喝采を浴びて引き揚げた。その姿は、まさに本当の親子のようだった。
ドジャースの32年ぶりワールドシリーズ制覇を見届ける
ラソーダはかねてから患っていた持病の心臓病を持ちながら、生き永らえた。ドジャースのワールドシリーズ制覇をまた見るまではあの世には行けない、とばかりに。ラソーダさんが監督を退いて以降、ドジャースはワールドシリーズ進出を逃し続けていた。2017年、ドジャースは前田健太、そしてシーズン途中からダルビッシュ有の加入もあり、29年ぶりに、ようやくワールドシリーズにコマを進めた。
3勝3敗で迎えた地元ドジャースタジアムで行われた第7戦、始球式には、ラソーダさんが育てたフェルナンド・バレンゼラが現れた。古いドジャースファンたちは、バレンゼラが躍動した1981年のワールドシリーズ制覇の再来を願った。しかし、先発のダルビッシュ有がアストロズ打線に打ち込まれ、ドジャースファンの夢は持ち越された(アストロズはその年、チームぐるみでサイン盗みを行っていたことが発覚した)。
その翌年、ドジャースは2年連続でワールドシリーズに進出したが、レッドソックスに1勝4敗で敗れ、またも夢はついえた。
そして、昨年2020年、コロナ禍という異例の短縮シーズンの中、ドジャースはタンパベイ・レイズを破り、32年ぶり7度目のワールドシリーズを制覇した。実にラソーダさんが監督を務めた1988年以来の歓喜であった。日系のデイブ・ロバーツ監督にとって、ラソーダさん同様、3度目のワールドシリーズ挑戦で初の美酒となった。
「私にはドジャーブルーの血が流れている」
「私にはドジャーブルーの血が流れている(I bleed Dodger Blue.)」
ラソーダさんが語った言葉だ。ドジャースとファン、何より野球を愛し、愛された男が、生涯、ドジャースとして人生に幕を下ろした。
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