小川泰弘(ヤクルト)、100球未満完封、「マダックス」達成/ヤクルトの過去の達成者は?

スワローズ・小川泰弘、1試合100球未満で完封勝利で「マダックス」達成

東京ヤクルトスワローズの小川泰弘が先発投手としての「勲章」を新たに手にした。

小川は5月15日の中日ドラゴンズ戦(バンテリンドームナゴヤ)に先発登板した。
小川は自身5度目の開幕投手を務めたが、3・4月は5試合の先発で2勝1敗ながら、防御率4点台と本調子とは言えない出来だった。前回、今季6度目の先発となった5月2日のDeNA戦(横浜スタジアム)では2回、55球で被安打7、今季2度目の6失点と大乱調。
二軍で再調整してから、一軍で13日ぶりとなる復帰の先発マウンドとなった。

小川は前回登板とは打って変わって、初回から危なげない投球を見せ、中日打線に三塁を踏ませないピッチングを続ける。8回まで88球を投げ、無失点。9回二死、2番・橋本の代打、武田健吾を2-2から5球目、この試合、99球目に投じたストレートで空振り三振。被安打3、無四球のおまけつきで、小川自身、初のノーヒットノーランを演じた2020年8月15日、DeNA戦(横浜)以来となる完封勝利を挙げた。


1試合100球未満で完封勝利が2日連続で記録は33年ぶり

近年のプロ野球では、先発投手は、完封はおろか完投も難しくなっているが、NPBで先発投手が1試合100球未満で完封勝利したのは、2017年4月14日、オリックス・バファローズの金子千尋がソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で被安打2、92球で完封して以来となった。
ところが、翌日の5月16日、東北楽天イーグルスの大卒新人、早川隆久がオリックス戦(京セラドーム)で99球で完封勝利を挙げたため、NPBでは4年間、一度もなかった「100球未満での完封勝利」達成が2日続くことになった。

これは、阪急ブレーブスが最後のシーズンとなった1988年、9月21日に山沖之彦が本拠地・西宮球場でのロッテ戦に先発、被安打3、86球で完封勝利、翌日9月22日に、今度は同じ阪急の佐藤義則が、ロッテ戦に先発して、同じく被安打3、98球で完封勝利を挙げて以来、33年ぶりだという。

先発投手の勲章、「マダックス」とは?

MLBでは、先発投手が1試合100球未満で完封勝利を挙げることを、通算355勝を挙げた偉大な投手、グレッグ・マダックスに因み、「マダックス(Maddux)」と呼ぶようになった。マダックスは1980年代からアトランタ・ブレーブス、シカゴ・カブスなどで活躍し、「精密機械」との異名をとるほどの制球の良さで、通算355勝のうち、35勝を完封勝利で記録しているが、そのうち、1試合100球未満での完封が13度もある。
1998年、米国のスポーツ記者のジェイソン・ルークハートが、マダックスが1試合100球以内で完封した試合を観戦した時に、「マダックス」と呼ぶようになった。ちなみに、マダックスは1997年に、1試合76球で「完投」したことがある。その時、マダックスが投じたボール球はたった13球だったという。

では、スワローズの投手で小川よりも前に、直近、この「マダックス」を達成したのは誰であっただろうか?

小川より前に、スワローズの投手で直近、1試合100球以内で完封勝利を挙げたのは、2015年8月11日の山中浩史である。

山中浩史、黒田博樹と投げ合い、石川雅規以来のマダックス達成

アンダースロー右腕の山中浩史はこの日を迎えるまでシーズン5試合に登板、すべて先発で、しかも5連勝を挙げていた。スワローズの投手で開幕からすべて先発で5戦5勝を挙げたのは、山中が初めてである。
山中は、地面スレスレに振り出された右腕から繰り出す最速120キロ台のストレートと90キロ台の変化球を武器に、打者を翻弄していた。
一方、広島の先発マウンドには、この年、MLBから復帰した黒田博樹。この試合が日米通算500試合目の登板で、MLB79勝を含み、日米通算189勝を挙げたレジェンドとの投げ合いである。

このとき、首位・阪神を追撃態勢に入っていたヤクルトの攻撃陣は頼もしかった。
特に山中がマウンドに上がると、攻撃陣の援護が増した。初回、4番・畠山和洋の内野安打で先制すると、2回には6番・大引啓次がソロホームランを放って、山中を援護する。
山中は3回に2死ながら二塁と、初めて得点圏に走者を背負ったが、1番・菊池涼介をセンターフライに打ち取り、なんとか切り抜けた。
山中に好投に呼応するように、ヤクルト打線は、5回、走者二人を置いて、山田哲人が黒田からレフトスタンドに叩きこむ25号3ランホームランを放って、5-0とリード。山中もその援護に応え、終わってみれば、被安打5、四球は4番・シアーホルツへの一つのみ、三塁を踏ませないピッチングで、プロ初完封勝利を挙げた。
投球数たったの96球。カープ打線から奪った27個のアウトのうち、フライアウトが14個、三振はわずか2つだが、3番・松山竜平、5番・新井貴浩から奪うという効果的な投球だった。

スワローズの先発投手が1試合100球以内で完封勝利を挙げるのは、2007年9月25日、同じ広島(市民球場)での広島戦で、石川雅規が98球で完封勝利を挙げて以来、8年ぶりの快挙となった。

スワローズ投手の「開幕6戦6勝」は金田正一以来、前年0勝の救世主

しかも、スワローズの投手で開幕からマウンドに上がった6戦すべてで6連勝、「開幕6戦6勝」は、国鉄時代の1958年、金田正一の9連勝に次ぐものであった。
金田はこの年、開幕戦の巨人戦でルーキー長嶋茂雄と対戦し、4打席連続三振を奪うなど、延長11回を投げ切って勝利すると、そこから先発・リリーフ、投げる試合すべてに勝利し、4月25日まで破竹の9連勝を挙げた。連勝が途切れた後も、5月27日には64回1/3連続無失点、6月6日には通算200勝達成、6月13日には8年連続の20勝到達、9月28日には自身初のシーズン30勝と、25歳を迎えたシーズンで絶頂期を迎えていた。
この9連勝中に金田が先発した試合は6試合あり、山中は「開幕から先発した6試合で6連勝」で、金田と並んだことになる。
剛速球で鳴らした金田と、最速120キロ台のアンダースローの山中が肩を並べたところが、野球の奥深さであり、投球の妙味でもある。
しかも、NPBの歴史で、前年シーズン0勝の投手が、「開幕6戦6勝」を挙げたのは、1953年のレオ・カイリー(毎日)以来の快挙である。

「不敗神話」を懸けた先発マウンド

山中は8月18日のDeNA戦(横浜スタジアム)で、NPB史上7人目(8度目)となる「開幕7戦7連勝」を懸けて先発マウンドに上がった。

過去の達成者は、金田正一を始め、村田兆治(2度記録)、岩隈久志、田中将大、西勇輝と、かつてのレジェンド、エース格の投手ばかりである。
前年0勝の投手が「開幕7戦7勝」をやってのけたケースはない。

山中は初回、2回は順調な滑り出しだったが、3回以降は毎回、走者を背負う投球。4回、2死一、三塁から、バルディリスにタイムリーを打たれ、先制点を与えてしまう。6回、ヤクルトは比屋根渉がソロを放ち、1-1。山中は6回まで被安打8を浴びながら、7回もマウンドに上がったが、死球と犠打で1死二塁。ここで上位打線を迎えるところで無念の交代となった。後続のセットアッパー、秋吉亮が打たれてシーズン初黒星を喫した。そればかりか、山中は翌日、右大胸筋の軽度肉離れと診断され、出場選手登録を抹消された。

ヤクルトは山中を欠いた後、小川泰弘、石川雅規、石山泰稚、館山昌平の4本柱を中心に、8月下旬の対巨人3連戦では2試合連続完封リレーを含む3タテを食らわせ、3度の6連戦があった8月を、貯金2で乗り切った。9月13日には再び、単独で首位に立った。2位・阪神に2ゲーム差をつけ、マジック点灯が懸かった9月20日の阪神戦(甲子園)、山中は1か月ぶりに復帰の先発登板を果たした。
しかし、初回、3番・山田哲人のセカンドライナーが併殺となり、嫌なムードが流れる。
山中は初回、今成亮太のレフト前ヒットを左翼のウラディミール・バレンティンがファンブルし、1死二塁のピンチ。福留孝介にタイムリーを打たれ、先制を許す。さらに、ゴメスに2ランホームランを浴び、初回、いきなり3点を失ってしまう。
2回、大和のピッチャーゴロを山中自身が弾き、拾った二塁・山田が一塁へ悪送球、無死二、三塁のピンチ。続く、鳥谷敬に犠牲フライ、今成亮太にもタイムリーを浴び、5失点。続く、マット・マートンにもヒットを打たれたところで、降板となった。山中の「不敗神話」はここでストップした(皮肉にも、山中はこの後、甲子園を得意とするようになり、通算17勝のうち、5勝を挙げることになる)。

山中はすでに優勝を決めて臨んだシーズン最終戦、ポストシーズンを睨んだテストもかねて、巨人戦(東京ドーム)のマウンドに上がったが、3回、5失点。2敗目を喫した。
結局、巨人とのファイナルステージと、古巣・ソフトバンクとの日本シリーズで出番はなく、地元・九州で日本シリーズ凱旋登板とはならなったが、ヤクルトにとって「救世主」と言っていい活躍だった。

熊本生まれ・熊本育ち、山中浩史の「転機」―レジェンドサブマリンとの出会い

山中浩史は1985年、熊本県天草市生まれ。地元の必由館高校の野球部に投手として入り、アンダースローに転向した。3年夏に甲子園に出場すると、初戦にリリーフ登板で(敗退)。その後、熊本の九州東海大学、Honda熊本と、熊本一筋で野球生活を送ってきた。
2012年のドラフト会議で、ソフトバンクホークスから6位指名を受け、入団した。すでにこのとき27歳。

翌2013年のルーキーイヤーはファームでは10勝を挙げ、最多勝。一軍では中継ぎを中心に登板したが、0勝2敗。活躍が期待されたプロ2年目の2014年、7月下旬に新垣渚とともに、ヤクルトの川島慶三、日高亮と、2対2のトレードで移籍した。
実はこのとき、ソフトバンクの内野手は、松田宣浩が骨折して全治6週間の重傷を負っており、代わった吉村裕基も、ケガで離脱。内野手の補強が急務となっていたのである。

生まれて初めて九州の地を離れ、新天地・ヤクルトに移った山中はその年、9試合すべてでリリーフ登板したが、防御率6.75と奮わなかった。プロ2年目とはいえ、もう28歳。プロとして開花するまでに残されている時間は短い。
だが、山中にとって、この移籍は環境の変化以上の幸運をもたらした。

ヤクルトには高津臣吾という、山中にとって願ってもない「生きた手本」が存在したのである。山中はアンダースローという希少な投法が故に、「師」を持たず、アンダースローの先人たちの映像を見ながら、独学でその投球を磨いてきた。だが、アンダースローで日米通算313セーブを挙げたレジェンドが、山中が移籍する直前のシーズンから、古巣ヤクルトの一軍投手コーチに復帰していたのである。山中は、高津コーチの助言を基に、自身のフォームの改造、投球術の意識改革にも取り組んだ。

「偶然」と「必然」が重なり、山中の運命は着実に変わり始めていた。

29歳9か月でプロ初勝利

本当の「転機」となったが、2015年。ヤクルトはこの年、監督に真中満に代わっていた。
4月末までは貯金2とまずまずの成績だったが、5月に大きく負け越し、首位・DeNAから6ゲーム差の5位。

一方、山中は二軍スタートで迎えたが、5月に先発に転向してから風向きが変わった。
5月3日の巨人戦(戸田)で7回、無失点の好投を見せたのである。この日、勝ちはつかなかったが、次の5月16日の日本ハム戦でも5回を無失点に抑え、初勝利。結局、5月は26イニングで2失点、自責点0という好調を維持、満を持して、一軍昇格を果たした。

ちょうど、先発ローテーションの一角、石山泰稚が不調に陥り、山中は交流戦のロッテ戦(神宮)での先発を言い渡された。しかし、雨天中止の影響で登板が6月12日、西武との交流戦(西武プリンスドーム)に延びた。
山中にとって、新人時代から2年ぶりとなる一軍の先発マウンド、投げ合う相手は同じアンダースローの牧田和久(現・楽天)となった。

ヤクルトは初回、2死走者なしから、牧田を攻め、3番・川端、4番・雄平、5番・畠山の3連打と1点を先制すると、続く、6番・デニングも連続タイムリーで2点を先制。2回も、川端のタイムリーで2点を追加した。3回も、山田哲人が走者一掃のタイムリーで3点を挙げ、牧田をノックアウト。山中はこれで波に乗ったか、3回まで無失点、4回にメヒアのタイムリー、5回に秋山翔吾の2ラン本塁打を浴びたが、その3点に抑え、6回を投げ切った。
ヤクルトは後続のリリーフがゼロに抑え、9-3で勝利し、山中がプロ初勝利を挙げた。
このとき、山中は29歳9か月。遅咲きの男に勝利の女神が微笑んだ瞬間だった。

ヤクルトに14年ぶりのリーグ優勝をもたらした、山中の「貯金」

この時点で、ヤクルトのリーグ優勝を予見できた評論家やファンはどれだけいたか。
ましてや、山中がヤクルトのリーグ優勝に貢献するとは、まだ誰も思わなかったかもしれない。5月を終わって、ヤクルトは首位・DeNAから6ゲーム差と離されていた。
ヤクルトがラストスパートをかけて、それまでの首位だった阪神を抜き去ったのは9月だが、6月の交流戦で山中が登場し、8月中旬までにプラス6勝を上乗せできたことが大きかった。
この年、ヤクルトは76勝65敗、貯金11。スワローズの先発投手でもっとも貯金を残したのが、石川雅規が13勝9敗で貯金4。小川泰弘が11勝8敗で貯金3、館山が6勝で貯金3。山中は6勝2敗で貯金4。つまり、山中は少ない登板数ながら、エース石川に匹敵するか、それ以上の貯金を挙げたのである。

「恩師」の下で挙げた最初で最後の勝利

山中は昨年2020年、オフにヤクルトを退団、36歳で現役引退を決めた。
山中は2019年、未勝利に終わり、2018年9月15日の阪神戦(甲子園)以来、勝ち星から遠ざかっていた。コロナ禍で開幕が遅れた昨年は開幕2軍でスタートしたが、8月2日、中日戦(ナゴヤドーム)でシーズン初の先発マウンドに上がり、8回を被安打4、無失点に抑える好投を見せた。中日・先発の梅津晃大も11回を無失点に抑え、スコアレスドローとなったため、山中の初勝利はならなかったが、復帰3戦目となった8月17日、広島戦で先発、5回2失点で2年ぶりの勝利を挙げた。
「恩師」高津臣吾監督の下で挙げた、山中の初の勝利は、奇しくも、「マダックス」達成、球団57年ぶりの「開幕6戦6勝」の快挙を達成した地、そして、指揮官の故郷である広島だった。
しかし、その後は先発した3試合で結果を出せず、9月21日の中日戦(ナゴヤドーム)を最後に一軍のマウンドに上がることはなかった。


山中が現役生活8年で挙げた勝利数は、通算で17勝。しかし、2015年に挙げた6連勝は間違いなく、スワローズ14年ぶりのリーグ優勝の重要なピースだった。
そして、それから5年後、山中は監督・高津臣吾に優勝の美酒をもたらすことはできなかったが、師の下で、現役を全うすることができたのが、山中にとって僥倖だったかもしれない。


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