阪神・青柳晃洋、8連勝で初の10勝/虎投手の過去の連勝記録は?
阪神タイガースの青柳晃洋が8月24日の対DeNA戦(京セラドーム)に先発登板し、7回を2失点に抑え、今季10勝目(2敗)を挙げた。
阪神に2015年のドラフト5位で入団した青柳にとって、プロ6年目にしてキャリア初のシーズン二桁勝利であり、セ・リーグの投手で今季、10勝いちばん乗りとなった。
阪神の投手でドラフト5位以下の指名で、一軍でシーズン10勝以上を挙げたのは、青柳が初めてである。
しかも、青柳は5月14日の巨人戦(東京ドーム)で今季3勝目を挙げてから、自身8連勝となった。
青柳は今季、16試合に先発し、クオリティスタートが14回、そのうち「ハイクオリティスタート(先発投手が7回以上を投げて、自責点2以下に抑えた登板)」が10度、防御率はセ・リーグ唯一の1点台となる、1.91と抜群の安定感を誇っている。
これで青柳は勝利数、防御率、勝利率でリーグトップに立っている。
では、阪神タイガースの投手が持つ連勝記録は、誰が持っているのか。
青柳と同じシーズン8連勝以上の記録保持者を見てみよう。
1964年 ジーン・バッキ― (開幕から)9連勝
ジーン・バッキ―はルイジアナ出身で、3Aハワイで右腕の投手としてプレーしていたが、日本のスポーツ新聞の記者の推薦を受け阪神タイガースの入団テストを受けた。長身からの直球とナックルボールを見た藤本定義監督が肝いりで獲得を後押しし、1962年のシーズン途中で入団した。このとき、バッキ―は24歳だった。
来日1年目は制球難で1勝も挙げられなかったが、投手生命を懸けて不退転の決意で来日したバッキ―は、通訳もいない中、日本文化に溶け込む努力も欠かさず、ハングリー精神を糧に制球力と複数の変化球を会得するなど急成長を遂げた。
来日2年目の1963年、バッキ―は5月26日の大洋戦に先発、大洋先発の稲川誠と共に、8回まで無失点に抑え、0-0の投手戦となった。しかも、バッキ―は8回までパーフェクトに抑える投球で、9回もマウンドへ。
大洋の先頭打者、近藤昭仁を打ち取り、あと二人。ところが、続く土井淳に四球を与え、完全試合は幻となった。
続く、打者は投手の稲川誠で、三塁側へ転がす送りバント。ところが、勝利を焦ったか、サードのヤシックが併殺を狙って二塁へ送球するもこれが悪送球となって、一死一、三塁のピンチを招いてしまう。
続く1番の島田幸雄はピッチャーゴロに打ち取り、二死。
バッキ―はNPB史上初となる、「プロ初勝利がノーヒットノーラン」という大記録まであとアウト1つまで来たが、ここで、途中出場でショートに入っていた伏兵・浜中祥和が打った当りはゴロとなってショートへ。ショートの吉田義男が追い付いて捕球態勢に入ったが、その直前、打球は二塁ベースに当たって跳ね返った。この間に三塁走者の土井淳が生還、なんとも不運な当たりによって、バッキ―はノーヒットノーランも逃し、結局、0-1で負け投手となった。
(注:その後、1965年10月2日に広島の外木場義郎が阪神戦でノーヒットノーランでプロ初勝利、1987年8月9日には中日の近藤真一が、プロ初登板の巨人戦でノーヒットノーランを記録している)
しかし、バッキ―はこれで自信を深めたのか、6月2日の中日戦(甲子園)ではNPB初勝利を完投で飾った。8勝を挙げたが、このオフ、村山実と並ぶ2枚看板エースの小山正明が「世紀のトレード」で東京オリオンズに移籍したことが、バッキ―のチャンスとなった。
バッキ―は、翌年の1964年は開幕2戦目の広島戦にロングリリーフで勝ち投手になると、3月28日の大洋戦では先発で起用されて2勝目、そこからは先発ローテーションに入り、勝ち星を積み重ねた。5月16日の大洋戦(川崎)では、早くも前年を上回る9勝目、開幕から9連勝を挙げた。
開幕10連勝を懸けて先発マウンドに上がった5月20日の広島戦(広島)でも、9回まで1失点に抑えたが、味方の援護がなく、10回裏に9回2死から阿南準郎にサヨナラタイムリー安打を打たれ、ついに連勝が止まった。この間、完投勝利は5回とタフネスぶりを発揮した。
外国人投手の開幕から連勝記録は、1988年に西武ライオンズの郭泰源が開幕10連勝するまで、バッキ―の開幕9連勝が最長記録であった。
その後、バッキ―は5連勝を挙げると、オールスターまでに17勝4敗を記録した。後半も順調に勝ち星を重ねると、エース村山実を凌ぐ29勝(9敗)を挙げ、防御率1.89で、最多勝・最優秀防御率の投手2冠を獲得、外国人投手として初の沢村賞も受賞した。先発した38試合のうち、完投が24回という、まさに大車輪の活躍であった。
バッキ―の覚醒により、小山正明の離脱による先発投手陣の穴を埋めた阪神はリーグ優勝を果たすことができたといっても過言ではなかった。
1964年の東京五輪開催直前に行われた日本シリーズは、南海ホークスとの「御堂筋シリーズ」となったが、バッキ―は第2戦に先発して、杉浦忠に投げ勝って勝利投手となった。第3戦、第5戦ではクローザーを務め、第6戦では再び先発したが、ジョー・スタンカに投げ負け、第7戦では村山実の後を受けてロングリリーフで無失点に抑えたが、日本一には届かなかった。バッキ―は7試合中、5試合に登板する獅子奮迅の活躍を見せた。
バッキ―は翌1965年以降も、外国人投手としてNPB初の5年連続で二桁勝利、防御率2点台と安定した成績を残し、1965年6月28日には巨人戦(甲子園)でノーヒットノーラン、1968年8月27日の広島戦(広島)では、来日外国人投手としてはジョー・スタンカ(南海)と並び、史上2人目となるNPB通算100勝もマークした。
しかし、その年の9月18日、巨人戦で王貞治への危険球を巡って、両軍で乱闘となり、その際、興奮したバッキ―は巨人の荒川博コーチを利き腕の右手で殴ったことで骨折し、そのオフに阪神を退団した。
翌年、近鉄バファローズへの移籍で再起を目指したが、今度は腰痛が悪化し、1勝も挙げられないまま、現役を引退した。
帰国後は、長年、教師を務め、牧場経営にも携わったが、2019年に故郷ルイジアナで82歳で亡くなった。
1985年 中田良弘 (開幕から)9連勝
*シーズンをまたぐと18連勝(1981年~1985年)
中田良弘は横浜高校で甲子園には出場できなかったが、亜細亜大学中退後、社会人野球の日産自動車を経て、1980年のドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団した。
プロ1年目の1981年、4月12日の本拠地・甲子園での巨人戦にプロ初先発を果たすと、巨人先発・定岡正二との投手戦となった。
中田は9回を投げ切り、中畑清のソロ一発の1失点だけに封じたが、一方の定岡が1回に先頭打者の北村照文に打たれた二塁打の1安打のみで残り27者連続アウトに取る「準完全試合」で上回り、中田のプロ初勝利はならなかった。
中田は5月4日の巨人戦(後楽園)でプロ初勝利を挙げたが、その後は主にリリーフとして起用され、同年は38試合に登板(先発は5試合)、6勝5敗8セーブとまずまずの成績を挙げた。
しかし、2年目の1982年はわずか1試合の登板で1勝にとどまり、3年目(1983年)・4年目(1984年)はすべて中継ぎとして登板したが、3年目はゼロ勝、4年目は4勝にとどまった。
転機が訪れたのはプロ5年目の1985年。4月18日の巨人戦で、中継ぎでシーズン初勝利を挙げると、先発ローテーション入りし、オールスターゲームまでに無傷の7勝を挙げた。
8月11日の中日戦で「開幕から無傷の9連勝」をマークしたが、これは阪神の投手では、1964年のジーン・バッキ―以来だった。
次の登板となった、8月17日の広島戦でついに中田に黒星がついた。
しかも、中田はルーキーイヤーの1981年7月21日の広島戦の勝利から黒星がなく、足掛け5年で18連勝を挙げた。これはNPBでも当時、歴代3位の記録だった(2013年に楽天の田中将大に抜かれ、現在は4位)。
【NPBでの投手連勝記録】
1位:田中将大(楽天)/28連勝/2012~2013年
2位:松田清(巨人)/20連勝/1951年~1952年
稲尾和久(西鉄)/20連勝/1957年
4位:中田良弘(阪神)/18連勝/1981年~1985年
5位:足立光宏(阪急)/17連勝/1970年~1971年
6位:斉藤和巳(ダイエー)/16連勝/2003年
7位:高橋一三(巨人)/15連勝/1969年
間柴茂有(日本ハム)/15連勝/1981年
上原浩治(巨人)/15連勝/1999年
斉藤和巳(ソフトバンク)/15連勝/2005年
中田は結局、それ以降はわずか3勝どまりだったが、自身初の二桁勝利、チーム2位の12勝を挙げ、タイガースの21年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
日本シリーズでも第3戦に先発登板し、敗戦投手となったが、日本一の美酒は味わった。
しかし、中田はその翌年から再び、登板機会が減り、勝てなくなった。
1990年6月2日のヤクルト戦(甲子園)で救援で勝利を挙げ、1985年9月10日以来、実に5年ぶりの勝利投手になった。その年はリリーフ中心で、自身初のオールスターゲームにも選出され、復活を印象づけたが、その後、また勝ち星から見放され、1990年9月28日の大洋戦でシーズン10勝目を挙げて以降、1994年オフに現役引退するまで未勝利に終わった。
中田は阪神一筋で挙げた通算33勝のうち、1985年に12勝、1990年に10勝を挙げているが、その間の合計8年間(1986年~1989年、1991年~1994年)は0勝に終わっている。
2003年 井川慶 12連勝
井川慶は茨城・水戸商業から1997年ドラフト2位で阪神タイガースに入団した。
制球難ながら、野村克也監督に速球を買われ、高卒3年目の2001年に先発ローテーション入りすると、チームトップの29試合に先発、9勝13敗、防御率2.67(リーグ2位)をマークした。
翌2002年、星野仙一監督により初の開幕投手に指名されると、チームトップの14勝を挙げ、防御率2.49、奪三振206で最多奪三振のタイトルを獲得、オールスターのファン投票でも先発投手部門でトップの得票を集めるなど、セ・リーグを代表する先発左腕エースへと成長した。
井川は入団5年目の2003年も2年連続で開幕投手を務め、キャリア最高のシーズンを迎える。4月30日のヤクルト戦でシーズン3勝目を挙げると、そこから白星街道が始まった。
オールスターゲーム直前の7月8日、広島戦で3試合連続完投勝利で9連勝をマーク、阪神の投手としては、1964年のジーン・バッキ―、1985年の中田良弘のシーズン最長記録に並ぶと、オールスターゲーム明けの7月21日のヤクルト戦でついに新記録となる10連勝をマークした。
さらに8月2日の中日戦で完投勝利を挙げると、自身12連勝となり、シーズン15勝目をマークした。8月10日の広島戦ではも7回を投げて自責点3に抑えたが、4月24日の中日戦以来となる黒星を喫した。
チームは9月15日に、18年ぶりとなるリーグ優勝を決めたが、翌日、広島戦で登板予定だった井川はビールかけには参加せず、1失点で完投し、シーズン17勝目を挙げた。
チームの残り試合が5となった、9月30日のヤクルト戦(神宮)では、井川は6回まで被安打6、6奪三振、3失点とまずまずの内容だったが、相手先発の高井雄平の好投で味方の援護は1点のみ。
7回、井川に打席が廻ったところで代打が出たため、この回に勝ち越さないと井川に勝ち投手の権利はつかなかったが、ヤクルト2番手の五十嵐亮太から、広澤克己のタイムリーなどで一挙3点を挙げて4-3と逆転し、7回からはジェロッド・リガン、ジェフ・ウィリアムズの継投で逃げ切って、シーズン18勝目を挙げた。
この勝利で、井川のシーズン20勝の可能性が現実性を帯びてきた。チームの残り試合は10月上旬の4試合だが、雨天順延になったカードで試合日程が空いていたのが幸いした。
井川は10月5日の広島戦に中4日で先発して8回を1失点で19勝目を挙げると、シーズン最終戦となった10月10日の甲子園での広島戦ではシーズン20勝目を懸けて、再び中4日で先発マウンドへ。井川は6回を投げ、2失点でマウンドを降りたが、味方の大量援護に守られて、リガン、ウィリアムズの継投で、井川はシーズン20勝目を手にした。
井川は阪神の投手としては、1961年の村山実(24勝)以来、24年ぶりとなるシーズン20勝に到達した。また「最多勝」、「最優秀防御率」、「最高勝率」の「投手三冠」を手にした。
パ・リーグでも福岡ダイエーホークスの右腕、斉藤和巳が20勝(3敗)を挙げ、1982年以来の両リーグで20勝投手が誕生した。共に投手三冠の井川と斉藤は沢村賞を同時受賞した。
日本シリーズでは、そのホークスとの対戦となった。第1戦は井川と斉藤の20勝投手の投げ合いとなったが、両者とも勝ち負けはつかず。井川は第4戦にも先発したが、やはり勝ち負けはつかなかった。一方の斉藤も2試合(第1戦、第5戦)に登板して0勝1敗だった。
結局、ホークスが4勝3敗で日本一となった。
パ・リーグでは2013年に楽天の田中将大が24連勝でシーズン20勝に到達しているが、セ・リーグでは井川を最後にシーズン20勝投手は18年、現れていない。
青柳は「最多勝」と「最優秀防御率」の「投手2冠」が狙える位置にいるが、阪神の投手で、同一シーズンに「最多勝」「最優秀防御率」の2つのタイトルを獲得した投手は2003年の井川慶(20勝、防御率2.80)以来となり、それ以前だと、1937年秋の西村幸生(15勝、1.48)1944年の若林忠志(22勝、1.56)そして、1964年のジーン・バッキー(29勝、1.89)と4人しかいない快挙である。
2010年 能見篤史 (開幕から)8連勝
*シーズンをまたぐと12連勝(2009年~2011年)
能見篤史は鳥取城北高校、大阪ガスを経て、2004年のドラフトの自由獲得枠で、阪神に入団した。
即戦力の左腕として期待され、ルーキーイヤーの2005年には、先発を中心に4勝を挙げたものの、最初の4年間で通算10勝9敗と伸び悩んだ。
入団5年目の2009年、シーズン13勝を挙げて、勝利数、防御率、奪三振はいずれもチームトップと、ブレイクを果たした。
翌2010年は開幕一軍入りを果たすと、3・4月に無傷の3勝を挙げ、左腕エースとして地歩を固めつつあったが、5月2日の巨人戦、走塁中に右足を痛めると長期離脱となった。
一軍復帰は4か月後の9月となったが、9・10月でさらに無傷の5勝(うち救援で1勝)を挙げて、「開幕から8連勝」をマ―ク、自身初の月間MVPにも選出された。
このままシーズンが終了し、結局、能見は12試合に登板し、8勝0敗、防御率2.60の成績を収めたが、シーズン中の離脱をマイナス評価され、年俸は5000万円と現状維持だった。
翌2011年、能見は自身初の開幕投手に抜擢され、4月12日の本拠地・甲子園での広島戦で初勝利を飾った。これでシーズンをまたいで12連勝となり、井川慶が2003年につくった球団2位の記録に並んだ。
4月19日の巨人戦(甲子園)では、球団記録となる7者連続三振をマークするが、勝利投手を逃し、連勝記録で球団単独2位はお預けとなった。
4月26日の広島戦(マツダスタジアム)で敗戦投手となり、2009年9月25日の中日戦から続いていた足掛け3年の連勝は「12」で止まった。
阪神投手の連勝記録は優勝へのサイン?
阪神の投手の連勝記録を見てきたが、阪神の投手で、同一シーズンに、先発のみで8連勝以上を挙げたのは、1964年のジーン・バッキ―(救援で1勝のあと、先発で8連勝)、2003年の井川慶(12連勝)と、今年の青柳(8連勝)の3人だけということになる。
そして、阪神の投手が「9連勝」を挙げたシーズンは、1964年(バッキ―)、1985年(中田良弘)、2003年(井川慶)と、チームはいずれもリーグ優勝を果たしている。
青柳自身、かつては「目標はシーズン二桁勝利」と言っていたが、今季は「シーズンの目標は13勝。二桁勝利は通過点」と言っている。
チームの16年ぶりのリーグ優勝のため、青柳がどこまで勝ち星を伸ばすか、そして、どこまで連勝を伸ばせるか、注目したい。
そして、その先には、タイガースの2014年以来の日本シリーズ進出、そして、1985年以来、36年ぶりの日本一が待っているはずだ。