【姓別ベストナイン】佐藤ベストナイン選手名鑑

3月10日は、「佐藤の日」だという。

3月10日は「佐藤の日」 全国最多200万人の名字の由来を探る(森岡浩) - 個人 - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/moriokahiroshi/20220310-00280896


NPBで一軍登録された選手で「佐藤姓」はこれまで65人いる(現役は5人)。
「佐藤姓」だけのベストナインを選出してみた。

1番 センター 佐藤真一 ダイエー-ヤクルト
2番 レフト 佐藤孝夫 国鉄
3番 ファースト G.G.佐藤(佐藤隆彦)西武→ロッテ
4番 ライト 佐藤輝明 阪神
5番 ショート 佐藤健一(兼伊知)    ロッテ
6番 サード 佐藤幸彦 ロッテ
7番 セカンド 佐藤友亮 西武
8番 DH 佐藤都志也 ロッテ
9番 キャッチャー 佐藤武夫 阪神-イーグルス-セネタース-翼-大洋-西鉄-巨人
先発投手 佐藤義則 阪急・オリックス
先発投手 由規(佐藤由規)ヤクルト→楽天
救援投手 佐藤政夫 巨人-ロッテ-中日-大洋-ロッテ
救援投手 佐藤道郎 南海→大洋

1番 レフト 佐藤孝夫 国鉄

1952年、国鉄スワローズに入団すると、遊撃手のレギュラーに定着、24試合連続安打(現在もセ・リーグ新人記録)をマークするなど、14本塁打、当時新人最多となる45盗塁で新人王を受賞。
プロ2年目から外野に廻り、22本塁打を放つと、1957年には22試合に四番打者として起用され、22本塁打を放ち、スワローズ史上2人目となる本塁打王を獲得した。
スワローズではこの後、2015年の山田哲人まで日本人選手の本塁打王は58年間、現れなかった。
プロ生活12年間でシーズン20本塁打以上を3度記録、通算150本塁打、シーズン20盗塁以上を7度記録して、通算219盗塁をマークしている。

2番 センター 佐藤真一 ダイエー-ヤクルト

社会人野球を経て、1992年、27歳でダイエーにドラフト4位指名され入団。
1996年、野村克也監督率いるヤクルトに移籍すると打撃が開花した。
1999年はシーズン途中から3番に定着すると、113試合に出場、規定打席未到達ながら打率.341、13本塁打、10盗塁をマークした。
この時、記録した25試合連続安打は、1952年の佐藤孝夫の24試合を抜きヤクルトのチーム記録である(2010年に青木宣親もタイ記録に並んだ)。

3番 ファースト G.G.佐藤(佐藤隆彦)西武→ロッテ

法政大学卒業後に渡米し、マイナーリーグで内野手・捕手としてプレーしていたが、西武・伊東勤監督に見出され、2003年に西武からドラフト7位指名を受けて入団。
本格的に外野に転向すると、2007年、打率.280、25本塁打、69打点で大ブレイクを果たした。
2008年には北京五輪代表での苦い経験を乗り越え打率3割にも到達、2009年には3年連続でシーズン20本塁打に到達、自己最多の83打点を記録するも、その後、成績不振で戦力外となり、2012年にイタリアでプレー。
2013年、かつての恩人である伊東監督が率いるロッテでNPBに復帰、2014年オフに引退した。


4番 ライト 佐藤輝明 阪神

近畿大学から2020年ドラフト1位で阪神に入団。
2021年開幕戦、ライトのスタメンを勝ち取り、2試合目にプロ初本塁打、横浜スタジアムでは場外弾を放つなど、4月末までに7本塁打を放ち、2003年の村田修一(横浜)に並ぶ新人最多タイ。
5月には「4番・サード」で満塁本塁打を放ち、交流戦の西武戦では1958年の長嶋茂雄(巨人)以来となる新人で1試合3本塁打をマーク。
8月17日、新人の左打者としては1946年の大下弘(セネタース)を上回るシーズン21号本塁打を放ち、阪神の快進撃に貢献した。
高卒新人・清原和博(西武、1986年)、大卒新人・桑田武(大洋、1959年)が持つシーズン31本塁打という新人最多本塁打記録の更新も期待されたが、後半、59打席連続無安打などで大失速。
それでもチームトップの24本塁打で1年目を終え、新人王は逃したが、セ・リーグ新人特別賞の表彰を受けた。
今季は1984年の掛布雅之以来のチーム日本人選手として久々の本塁打王の期待が懸かる。

5番 ショート 佐藤健一(兼伊知) ロッテ

1979年、ロッテのドラフト5位指名を受けて投手として高卒で入団。
内野手に転向すると、1986年に内野手のレギュラーを掴み、ユーティリティプレイヤーとなる。1990年、31歳でショートのレギュラーとして2度目の規定打席に到達。
1992年、プロ15年目で1000試合出場を果たし、現役を引退した。

6番 サード 佐藤幸彦 ロッテ

千葉・拓大紅陵から1986年、地元のロッテからドラフト4位指名を受けて入団。
入団後は三塁を守ったが、外野にコンバートされ、1993年には1試合4犠打のNPBタイ記録をつくった。
規定打席に達することはなかったが、左キラーの右打者で四番を打つこともあり、守っては内外野をこなすユーティリティプレイヤー、そして選手晩年は右の代打として息長く活躍し、2004年オフに引退した。

7番 セカンド 佐藤友亮 (ともあき) 西武

慶応義塾大学から2000年ドラフト4位で西武に入団。
2001年の開幕戦に「2番・セカンド」でプロ初出場すると、1回裏のプロ初打席でヒットを放ち、これが「NPBの21世紀の初安打」となった。
プロ2年目に外野に本格的に転向すると、4年目の2004年にはMLB移籍で退団した松井稼頭央に代わって1番・センターに定着、規定打席不足ながら打率.317、97安打、11盗塁、中日との日本シリーズでも打率.394をマークして、日本一に貢献した。
その後はケガによる不振もあったが、バイプレーヤーとして活躍した。

8番 DH 佐藤都志也 ロッテ

2019年、東洋大学からロッテのドラフト2位指名を受け入団。
2020年、新人で開幕一軍を勝ち取り、4月に代打でプロ初安打・初打点となるサヨナラタイムリー安打を放った。
捕手ではまだまだ課題はあるものの、代打で打率.310をマークするなど勝負強さを見せ、2021年にはクライマックスシリーズでもサヨナラ安打を放った。
2022年は正捕手を巡って、田村龍弘、高卒新人の松川虎生(こう)らと争う。

9番 キャッチャー 佐藤武夫 大阪-イーグルス-セネタース-翼-大洋-西鉄-巨人

職業野球のリーグ戦が開始した1936年春に大阪タイガースに入団、5球団を渡り歩き、496試合に出場したが、捕手として431試合でマスクを被った。
打率は低いが、三振を恐れない長打狙いのスイングで人気を博したという。
戦後、NPBで審判員を務めた。

先発投手 佐藤義則 阪急・オリックス

阪急からドラフト1位指名を受け入団、1977年に7勝を挙げて新人王を受賞。
1984年、自己最多の21勝で最多勝と最多奪三振、翌1986年には最優秀防御率のタイトルを獲得すると、1987年には山田久志に代わり開幕投手を務めた。
30代もほぼ毎年、先発ローテーションに入って20試合前後、先発し続けた。
阪神大震災が起きた1995年、40歳で開幕投手を務めると、8月26日には当時NPB最年長となるノーヒットノーランを達成、リーグ優勝に貢献した。
1998年、通算165勝の成績を残し、44歳で現役引退した。
オールスターにも7度、選出され、39歳で先発投手を務めた。

先発投手 由規(佐藤由規)ヤクルト→楽天

仙台育英高校(宮城)3年夏に甲子園に出場、甲子園大会歴代投手最速となる155キロを計測、話題を呼ぶ。
2007年高校生ドラフト1巡目指名で、ヤクルトに入団。
2008年9月、高卒新人ながら先発でプロ初勝利を挙げた。
プロ3年目の2011年に自己最多となる12勝を挙げたが、2012年に右肩を故障、以後、4年連続で一軍登板がなかった。
2016年7月9日の対中日戦(神宮)に先発投手として登板、一軍公式戦では2011年9月3日の対巨人戦(神宮)以来、1771日ぶりの登板を果たすと、7月24日の対中日戦(ナゴヤドーム)で5回1/3を投げ、2失点に抑え、1786日ぶりの勝利を挙げた。
2018年には開幕一軍入りするも4月に挙げた1勝に留まり、右肩痛が再発した。
オフにヤクルトを退団、かつてのヤクルトの先輩投手である石井一久GMが率いる楽天に育成選手として入団した。
2019年シーズン最終戦となった9月26日、対西武戦(楽天生命パーク)で9回に1イニングを投げて、481日ぶりの1軍復帰を果たしたが、2020年に楽天を退団。
2021年からルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団、15試合に先発して8勝を挙げた。
2022年からは投手兼コーチを務める。

救援投手 佐藤政夫 巨人-ロッテ-中日-大洋-ロッテ

左の変則サイドスロー投手として1969年のドラフトで巨人に5位指名を受けて高卒で入団するが、1971年にロッテに移籍。
1974年、中日に移籍すると、10月14日の対巨人戦では、長嶋茂雄の現役最後の打席で対戦し、ショートゴロ併殺打に打ち取っている。
翌年1975年から中継ぎで出番が増え、1976年、プロ7年目で初勝利。
1980年オフに中日を自由契約になったが、1981年に大洋に移籍すると、プロ入り11年目で初の先発勝利、さらに初の完投勝利を完封で飾るなど、リーグトップの57試合に登板、先発と救援で自己最多の6勝を挙げた。
大器晩成で、37歳で引退するまで418試合に登板、息の長い投手生活となった。

救援投手 佐藤道郎(みちお) 南海→大洋

1969年、日本大学から南海のドラフト1位指名を受け入団。
1970年、新人ながらリリーフの柱として、オールスターにも選出、リーグトップの55試合に登板、ほぼ救援だけで18勝を挙げ、2リーグ分立後、新人8人目となる最優秀防御率のタイトルも獲得(現在も12人しかいない)、文句なしの新人王に選出された。
1974年、3年連続となるシーズン60試合登板を果たし、パ・リーグの初代・最多セーブ王となり、1976年にも2度目の最多セーブ王となった
1977年は初めて先発に本格的に転向、12勝を挙げて、自身3度目の二桁勝利をマークした。

1979年、大洋に移籍、1980年に通算500試合登板に到達、現役引退した。
当時としては珍しくリリーフ専門でオールスターにも3度、選出されている。


いかがだろうか?

「佐藤姓」の選手の特徴は両極端で、早熟で短命、あるいは、地味で遅咲きだが長寿という正反対の選手イメージに分かれる。
そして、なぜか、ロッテとヤクルトに在籍した選手が多いのも特徴だ。

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