スタンフォード大学野球部OBで打線を組んだ(引退した野手編)
岩手県・花巻東高校野球部で高校通算140本塁打を放ち、甲子園にも出場した佐々木麟太郎が、卒業後に、米国スタンフォード大学(カリフォルニア州スタンフォード)に留学することが発表された。
スタンフォード大学といえば、米国でもトップクラス、世界的にみても、最高峰の大学だが、伝統的にスポーツも盛んである。
愛称「カーディナル」で知られる野球部もこれまでに100名以上のメジャーリーガーを輩出している。
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/02/14/kiji/20240214s00001002412000c.html
佐々木麟太郎は早ければ2年後に、MLBのドラフトで指名される可能性がある。
一方、NPBのチームの場合、米国に在学する大学生であっても、「新人選手選択会議規約」における「新人選手」に該当するため、獲得するためには、NPBのドラフト会議で指名する必要がある。
しかし、日本の学校に在学している選手であれば、「選択会議(ドラフト会議)開催の翌年3月卒業見込みに限り選択することができる」という制限があるものの、佐々木のように米国の大学に在学する選手の存在を想定していないためか、指名対象となる選手の学年に関する規定、在学中の指名に関する制限が存在しない。
従って、佐々木は今年のNPBのドラフト指名対象となる可能性もある。
【参考】新人選手選択会議規約
https://jpbpa.net/wp-content/uploads/2021/12/rp2010.pdf
スタンフォード大学の野球部OBの元メジャーリーガーで打順を組んでみた。
なお、現役選手は含まれていない。
1番 遊撃 ジェド・ラウリー
2005年のMLBドラフト1巡目追補(全体45位)でボストン・レッドソックスから指名され、プロ入り。スタンフォード大学野球部の同級生には、テキサス・レンジャーズから1巡目(全体19位)指名を受けたジョン・メイベリー・ジュニアがいた。
アメリカン・リーグのオークランド・アスレチックスへ移籍した2015年は主に遊撃手としてキャリアハイの154試合に出場し、打率.290、75打点はキャリアハイ、2年連続となる15本塁打を放ち、リーグ2位の45二塁打を放った。
2017年にアスレチックスに復帰、その年には球団記録となる49二塁打、2018年にはキャリアハイの23本塁打を放った。
2018年オフに2年総額2000万ドルの契約でニューヨーク・メッツに加入したが、2019年はケガの影響でわずか9試合の出場で8打席にしか立てず、7打数無安打4三振、2020年もシーズン全休で終えた。2021年にアスレチックスに自身3度目の復帰を果たして、主に二塁手と代打で139試合に出場、14本塁打をマークしたが、晩年は故障に苦しみ、2023年3月に自ら引退を発表した。
2番 三塁 エド・スプレイグ・ジュニア
父にMLBでプレー経験のある投手・エド・スプレイグ(MLB通算198試合、17勝23敗9セーブ、防御率3.84)を持ち、1985年のMLBドラフト26巡目(全体673位)でボストン・レッドソックスから指名されたが、スタンフォード大学へ進学。
1988年にはソウル五輪で公開競技として行われた野球競技に米国代表として出場、決勝で野茂英雄、古田敦也、野村謙二郎らを擁する日本代表を破って金メダルを獲得した。
1988年のMLBドラフト1巡目(全体25位)でトロント・ブルージェイズから指名され、入団すると、1992年は主に代打、1993年には三塁手のレギュラーとしてブルージェイズの1992年からワールドシリーズ2連覇に貢献した。
その後、1996年にはキャリアハイとなる36本塁打、101打点をマーク。
1999年のピッツバーグ・パイレーツ在籍時にはキャリア唯一のオールスターゲーム選出を果たし、2001年、イチローが入団したシアトル・マリナーズに6球団目となる移籍、シーズン116勝を挙げてポストシーズン進出を果たして現役を引退した。
その後、父も在籍したことがあるオークランド・アスレチックスのGM補佐を経て、育成部門の部長を務めている。
3番 左翼 カルロス・クエンティン
スタンフォード大学時代は、「カレッジ・ワールドシリーズ」に3年連続で出場し、2003年にMLBドラフト1巡目指名でアリゾナ・ダイヤモンドバックスへ入団。
シカゴ・ホワイトソックスに移籍した2015年、8月末の時点でアメリカン・リーグ最多の36本塁打を記録していたが、9月1日の試合中にバットを右手で殴って手首を骨折、残りシーズン絶望となり、キャリアハイの打率.288、36本塁打、100打点を挙げたものの、リーグ本塁打王はわずか1本差でミゲル・カブレラ(デトロイト・タイガース)にさらわれた。
2013年4月11日のロサンゼルス・ドジャース戦でザック・グレインキーと乱闘になり、グレインキーは左鎖骨骨折で全治8週間と診断されるケガを負い、クエンティンは8試合の出場停止の処分となった。
左膝の痛みから一度、現役を引退したが、マイナーリーグで復帰し、メキシカンリーグでもプレーした。
4番 右翼 スティーブン・ピスコッティ
2012年のMLBドラフト1巡目追補(全体36位)でセントルイス・カージナルスから指名され、プロ入り。
2016年は右翼手のレギュラーに定着し、153試合に出場、打率は.273、35二塁打、22本塁打、チームトップの85打点を記録した。
2017年オフ、ピスコッティは母親が難病のALSを発症したため、地元・オークランドでのプレーを直訴し、承諾され、アスレチックスにトレードを打診、了承され移籍が実現した。
しかし、母親は2018年5月に死去。ピスコッティはその翌日、ホームランを放つなど151試合に出場して打率.267、キャリアハイの27本塁打、88打点を記録し、「トニー・コニグリアロ賞」(1990年に制定され、難病や逆境を克服した選手に贈られる賞)を受賞した。
その後、ピスコッティは原因不明のALSの研究機関を発足するために資金を募ると、ダルビッシュ有が個人で1万ドルを寄付した。
2019年3月、シアトル・マリナーズのイチロー・菊池雄星の日本凱旋(かつイチローの引退試合興行)となった東京ドームでの開幕試合でMLBシーズン第1号ホームランを放った。
同年5月、球団の検査で右耳に腫瘍が見つかり、腫瘍の除去手術を受けたが、復帰し、同年8月には試合中、右翼の守備でプレー中に打球を見失いながらキャッチする「ノールックキャッチ」を披露した。
2020年には、「ルーゲーリック賞」(1955年制定、人格者であったゲーリッグのように球場内外での優れた精神や人柄を持ったプレイヤーに贈られる賞)を受賞した。
2022年8月に自由契約となり、現役を引退した。
5番 捕手 ボブ・ブーン
1969年のMLBドラフトでフィラデルフィア・フィリーズから6巡目に指名され、入団。1972年にメジャーデビュー。
1973年から正捕手の座につき、1976年に初のオールスター出場(以後通算4回出場)、1978年に初のゴールドグラブ賞を受賞(以後通算7回受賞)。
1980年にはフィリーズの30年ぶりのリーグ優勝、初のワールドシリーズ制覇に貢献した。
1981年にはストライキによる短縮シーズンで76試合の出場に留まり、オフにカリフォルニア・エンゼルスに移籍するが、正捕手となり、1982年に両リーグでゴールドグラブ賞を受賞。
さらに38歳の1986年から4年連続でゴールドグラブ賞を受賞。
1989年にカンザスシティ・ロイヤルズに移籍し、自身7度目、3チーム目となるゴールドグラブ賞を41歳で受賞。1990年限りで現役を引退した。
捕手としての通算2225試合出場は当時、MLB最多記録であった(1993年にカールトン・フィスク(シカゴ・ホワイトソックス)に更新され、さらに2019年にイバン・ロドリゲス(当時ヒューストン・アストロズ)がMLB最多記録を更新している)。
父は1950年代にデトロイト・タイガース等で主に三塁手として活躍したレイ・ブーン。実の息子にはシアトル・マリナーズ等で二塁手として活躍したブレット・ブーン、シンシナティ・レッズ等で三塁手として活躍したアーロン・ブーン(現ニューヨーク・ヤンキース監督)がいる。
ブーン家は親・子・孫と三世代でMLBでプレーした最初の家族となった。
しかも、4人全員がオールスターに出場した。
(ブレットの息子、ジェイクもナショナルズ傘下のルーキーリーグのチームに2021年に所属していたが、2022年5月にリリースされた)
引退後は1995年から1997年途中まで、最後に現役を過ごしたカンサスシティ・ロイヤルズで監督を務め、1995年は地区2位となったが、2年連続最下位で解任された。
その後、2001年から2003年途中までシンシナティ・レッズで監督を務めたが、一度もシーズン勝ち越しをできないまま、3年目のシーズン途中で解任された。
監督としての成績は通算815試合で 371勝444敗、勝率.455。
その後、2003年からワシントン・ナショナルズにGM付シニアアドバイザーとして加入、2006年から2013年までGM補佐と選手育成部門長を務め、その後も球団副社長として2019年のワールドシリーズ制覇も見届けたが、2021年に退任した。
6番 DH ジェイソン・カストロ
2008年のMLBドラフト1巡目(全体10位)でヒューストン・アストロズから指名され、プロ入り。2013年に正捕手となり、オールスターに選出されると以後、5年連続シーズン二桁本塁打をマーク、低迷期のアストロズを支えたが、リーグ優勝に縁がないまま、2016年オフにFAでミネソタ・ツインズに移籍した(翌2017年にアストロズは球団創設初のリーグ優勝)。
2020年にロサンゼルス・エンゼルスに移籍すると、2018年10月に右肘のトミー・ジョン手術を受けた投手・大谷翔平とチームメートとなった。クラブハウスで大谷翔平に故障しにくいトレーニング法や身体に関する知識をレクチャーし、投手・大谷翔平の693日ぶりの公式戦登板となった7月26日のアスレチックス戦では、先発マスクをかぶった。
2021年にアストロズに復帰すると、9月22日のエンゼルス戦で先発マスクをかぶり、対戦した打者・大谷翔平に2打席連続申告敬遠を含む、1試合4四球を与えた。
2022年シーズン開始前に、今季限りの引退を示唆すると、4月20日、アストロズ戦に登板した大谷翔平が6回途中まで12奪三振、パーフェクトに抑えていたが、先発マスクのカストロと対戦、カストロが自身シーズン初安打を放って大谷のパーフェクトを阻止した。
7番 一塁 ライアン・ガーコ
2003年のMLBドラフト3巡目(全体78位)でクリーブランド・インディアンスから指名され、プロ入り、2005年9月18日にメジャーデビュー。
2007年から、メジャーに定着、138試合の出場で打率.289、21本塁打、61打点のキャリアハイをマーク、2008年も141試合で打率.273、14本塁打、キャリアハイの90打点をマーク。
2010年オフに韓国のサムスン・ライオンズに移籍、その後、マイナーの複数球団でプレーしたが、メジャー昇格がないまま、引退。
引退後は、母校のスタンフォード大学の野球部のコーチ、ドジャース傘下の2Aチームの監督など、を務め、2020年にはロサンゼルス・エンゼルスでコーチ補佐兼インスタント・リプレイコーディネイターに就任、2021年9月、デトロイト・タイガースの選手育成部門の副部長に就任した。
8番 中堅 ジョン・メイベリー・ジュニア
ミズーリ州カンザスシティのロックハースト高校では、野球とバスケットボールでも活躍。米国の全国紙"USAトゥデイ"社選定の「オールアメリカン」にも選ばれ、2002年のMLBドラフトでシアトル・マリナーズから1巡目(全体28位)指名されるが、スタンフォード大学へ進学。同学年にジェド・ラウリー(2005年MLBドラフトでボストン・レッドソックスから1巡目指名追補、全体45位)がいた。
スタンフォード大学の3年間で打率.312、28本塁打、148打点の成績を残し、2005年にMLBドラフトでテキサス・レンジャーズから1巡目(全体19位)指名を受け、入団した。
2009年5月23日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビューすると、エース左腕の先発のアンディ・ペティット(MLB通算256勝)からメジャー初本塁打となる3ラン本塁打を放つという華々しいデビューを飾った。
2012年は8月から中堅手のレギュラーを獲得、キャリアハイとなる149試合に出場し、108安打のキャリアハイを記録したが、111三振と確実性に欠けたため、その後は出場機会は減り、2015年シーズン限りでメジャーでのプレーは途絶えた。
9番 二塁 エリック・ブラントレット
スタンフォード大学ではカレッジ・ワールドシリーズに3回、出場した。
2000年のMLBドラフトで9巡目(全体277位)でヒューストン・アストロズから指名され、入団、2003年に25歳でメジャーリーグデビューした。
2005年、キャリアハイの91試合に出場し、アストロズの球団創設初のリーグ優勝に立ち合い、シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズに出場した(結果は敗退)。
2008年にはフィラデルフィア・フィリーズに移籍、120試合に出場し、15年ぶりのリーグ優勝に貢献すると、タンパベイ・レイズとのワールドシリーズに自身2度目の出場を果たした。第2戦では代打本塁打を放ち、フィリーズの38年ぶりワールドシリーズ制覇に貢献して、田口壮、井口資仁らと共に、自身初のチャンピオンリングを手に入れた。
翌2009年8月23日のニューヨーク・メッツ戦では二塁手として先発出場し、3安打を記録した後、フィリーズが9-7と2点リードの9回裏無死一、二塁の場面でメッツベンチはヒットエンドランのサインを出した。
投球と同時に二人の走者がスタートし、打者のジェフ・フランコーアが放ったセンター前に抜けようかという低いライナーの打球に対して、二塁手のブラントレットが走りながらキャッチして二塁ベースを踏み、走ってきた一塁走者を追いかけてタッチした。
この瞬間、MLB史上15人目となる、「無補殺三重殺」を完成させた。
(その後、MLBでは現れていない)
しかも、「ひとり三重殺」達成と同時に試合が終了したのは、MLB史上82年ぶり2度目、ナショナル・リーグでは初であった。
この年2009年にも、フィリーズは2年連続でリーグ優勝を果たし、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズに、ブラントレットは自身3度目となる出場を果たしたが、2度目のチャンピオンリングは得られなかった。
究極のユーティリティープレーヤーで、2005年と2009年に1シーズン中だけで投手と捕手以外の全ポジションを守った経験がある。
代打 チャック・エッセジアン(元近鉄)
スタンフォード大学時代は野球の外野手とアメリカンフットボールのラインバッカーでプレーし、特にアメフトでは1952年にカレッジ・フットボールの最高峰である「ローズボウル」に出場した。
マイナーリーグで7年間プレーして通算97本塁打を放った後、1958年でフィラデルフィア・フィリーズでようやくメジャーデビューした。
1959年にセントルイス・カージナルスを経て、ロサンゼルス・ドジャースに移籍し、24試合の出場ながら打率.304、1本塁打を記録してリーグ優勝に貢献、シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズに出場。
MLBのワールドシリーズと「ローズボウル」の両方に出場したのは、ジャッキー・ジェンセン(ボストン・レッドソックスなどに所属、通算199本塁打)に次いで史上2人目の快挙となった。
ドジャースが0勝1敗で迎えた第2戦、1-2でビハインドの7回表、エッセジアンは代打で登場して同点となるホームランを放った。
エッセジアンは優勝が懸かった第6戦でも代打でシリーズ2本目のホームランを放ち、ワールドシリーズ新記録をつくると、ドジャースは4勝2敗で優勝を果たした。
1962年は左翼のレギュラーとなり、打率.274、21本塁打、50打点のキャリアハイを記録した。
MLB7球団を渡り歩き、1964年に近鉄バファローズに入団、登録名は「チャック」となった。開幕後しばらくは打順5番を打ったが、4月半ば以降は6番や7番の下位打線で、土井正博の28本塁打に次いでチーム2位の15本塁打を放ったものの、打率.263、15本塁打、41打点は平凡な成績とみなされ、1年で退団、帰国した。
なお、同年9月3日、日生球場での対南海ホークス戦(ダブルヘッダー第1試合)で、チャックは投手のジョー・スタンカと投球を巡って乱闘となったが、これがNPBにおける外国人選手同士1対1の乱闘としては初のケースとされている。
この年、すでに21勝を挙げていた南海先発のスタンカが初回から最下位の近鉄打線につかまり、1点を失って2死ながら走者を二人置き、右打席に入った7番・チャックにビーンボールまがいの1球を投じた。
そのときは何事もなく収まったのだが、直後にチャックがスタンカから2点タイムリー二塁打を放ち、スタンカが早くも3点を失った。
すると、チャックが二塁ベース上でマウンドのスタンカに何やら声をかけた途端、スタンカが怒り、両者にらみ合いとなった。
そこからまずチャックが右フックを繰り出すもスタンカがそれをかわし、横抱きにチャックをグラウンドに引き倒した。両軍ナイン総出で2人を引き離し、ともに初回で退場となっている。
現役引退後は、南カリフォルニアで弁護士になり、1987年まで務めた。
代打 クリス・カーター(元西武)
2004年のMLBドラフトでアリゾナ・ダイヤモンドバックスから17巡目指名を受け、スタンフォード大学では人間生物学を専攻し、飛び級で3年で卒業して入団。
2008年にボストン・レッドソックスで外野手としてメジャーデビューすると、2009年に投手/ビリー・ワグナー(MLB通算853試合登板、422セーブは左腕で2位)との1対2トレードでニューヨーク・メッツに移籍、2010年は対右投手のスタメンとしてキャリアハイとなる100試合に出場し、打率.263、4本塁打、24打点の成績を残したが、2011年はマイナー暮らし。
2011年オフにNPBの埼玉西武ライオンズに入団したが、2012年の開幕前、3月に右膝の手術を行った。一軍デビューは6月23日のオリックス戦で、そこからは主に代打として出場することになった。
その後は代打で勝負強さを発揮するとともに、8月23日の対ソフトバンク戦(県営大宮球場)の試合前ミーティングでは、ナインを前に以下のような熱弁を奮って仲間を鼓舞し、チームを勝利に導いた。
結局、カーターは2012年シーズンは59試合に出場し、打率.294、4本塁打、27打点、特に代打では打率.333、出塁率.438、得点圏打率.359を記録するなど驚異的な勝負強さを発揮し、チームの3年連続となるクライマックスシリーズ出場に大きく貢献した。
しかし、シーズン終盤に手術した右膝の状態が悪化、指名打者での出場も困難な状態であったため、オフに自由契約となった。
西武を退団後は一旦は現役を引退し、米国に帰国していたが、NPBのスカウトに現役復帰を打診され、2013年に国内の独立リーグ/BCリーグに加盟する石川ミリオンスターズ主催のトライアウトへ参加し、4月に石川ミリオンスターズへ入団。MLB経験者がBCリーグへ入団するのは2012年のフランシス・ベルトラン(群馬)以来2人目となった。
2013年6月、石川ミリオンスターズから西武への譲渡という形で入団し、背番号は「10」で復帰。しかし、わずか14試合の出場にとどまり、打率.133と結果を残せず、自由契約。2014年はメキシカンリーグに所属していたが、同年6月に現役を引退。
引退後は米国のヘッジファンド会社「ブリッジウォーター・アソシエイツ」でプロジェクトマネージャとして働いていた後、2018年にはジョージア州アトランタのiFOLIO社にて、スポーツ奨学金のサポート業務に従事している。
引退後も西武ファンを公言しており、2023年から3年ぶりにTwitterを再開、Youtubeでも情報発信している。