【訃報】三宅秀史さん/悲運に泣いた「元祖鉄人」の野球人生と「同期の桜」
1960年代、阪神タイガースで三塁手として活躍した三宅秀史さんが3月3日、亡くなった。享年86だった。
三宅秀史さんといえば、1950年代後半から60年代にかけての阪神タイガース(1960年までは大阪タイガース)で、小山正明、村山実、吉田義男、鎌田実、藤本勝巳らと共に、1962年の戦後初の優勝に導いたメンバーであり、かつ堅実な守備と中距離打者として、当時、日本記録となる700試合連続フルイニング出場という金字塔を打ち立てた。だが、三宅さんの野球人生は波乱に満ちたものだった。
三宅さんは、岡山県立南海高校(現・倉敷鷲羽高校)から高卒で1953年に大阪タイガースに二塁手として入団すると、「ミスター・タイガース」こと藤村冨美男が引退した後、入団3年目の1955年からタイガースの三塁手のレギュラーとして定着し、1957年には打率リーグ7位でベストナインの三塁手部門に選出された。その年のオフ、読売ジャイアンツに入団した長嶋茂雄は、入団時、「目標とするのは(同じサードを守る)タイガースの三宅さん」と名前を挙げた。
その後、三宅さんは、いきなりスーパースターとなった長嶋茂雄と同じポジションで比較されることとなり、ベストナイン選出にも縁がなかった。だが、三宅さんが後世に語り継がれたのは、長嶋茂雄を凌ぐと言われた、その守備である。三宅さんの守備は、派手さこそないが、打球への反応の速さ、そして打球の正面に回り込んで正確無比かつ素早い捕球、そして強肩を活かした送球は群を抜いていたという。普段は寡黙な三宅さんが、練習・試合となるとグラウンドで音もなく打球にすり寄る敏捷性を以って、チームメートたちからは「ネコ」と呼ばれた。
三宅さんの守備に対し、味方であろうが、敵将であろうが玄人たちも、この上ない賛辞を惜しまなかった。タイガースは「三塁・三宅、遊撃・吉田、二塁・鎌田」という「鉄壁の内野陣」を形成し、甲子園のうるさい観客たちは勿論、各地を遠征した際も、この内野陣のシートノックを見物しようと試合前の練習から多くのファンが集まり、スタンドを大いに沸かせたという。
しかも、三宅さんはシーズン打率3割こそ経験はないが、打率リーグ10位以内を3度、記録し、当時、貧打に泣く阪神では貴重な中距離打者として、三振を恐れぬフルスイングで、5年連続シーズン二桁本塁打を記録した。さらに球団歴代3位となる通算199盗塁を記録するほどの俊足であった。
堅実な守備力に一番打者も打てる俊足と五番打者も打てる長打力。 三宅さんはまさに打ってよし、守ってよし、走ってもよしの内野手であったといえる。さらに、1956年4月11日の大洋戦(川崎)から、882試合連続試合出場という当時、日本プロ野球歴代3位の記録を打ち立てた。しかも、1957年7月15日の広島戦(甲子園)からは毎試合、試合の最初から終了まで出場し続けていた。それには1959年6月25日の後楽園球場での巨人戦、天覧試合も含まれる。その試合の6回、陛下の眼前で、三宅さんは巨人・先発の藤田元司からタイムリー二塁打を放って1点差に迫り、次打者・藤本勝巳の逆転ホームランの足掛かりをつくった。タイガースの元祖・「鉄人」といってもよい。
しかし、三宅さんが阪神に入団して10年目の1962年の秋、チームが戦後初の優勝のチャンスが巡り、首位攻防戦を迎えた9月5日、三宅さんが前人未到の700試合連続フルイニング出場という節目の大記録を打ち立てた翌日、奈落の底に突き落とされるような悲劇が起きた。
1962年も9月に入り、三原脩監督が率いる大洋ホエールズと、藤本定義監督が率いる阪神タイガースが激しく競り合っていた。この年は開幕から大洋が一歩リードしていたが、オールスター後、ついに阪神が首位に立った。
阪神は一リーグ時代の1947年以降、優勝から遠ざかっており、2リーグ分裂後、初めてのセ・リーグ優勝を目指してしていた。藤本監督は、巨人の初代監督として、黄金時代を築いたが、巨人の監督を辞してからは他の球団を転々とし、前年から阪神の監督に就任していた。藤本は巨人時代の後輩である「じゃじゃ馬」こと青田昇をヘッドコーチに迎え、選手たちに蔓延する「巨人コンプレックス」の払しょくを掲げた。そして、シーズン開始前から、村山実と小山正明を先発の二枚看板に据えることを決心した。日本球界において「先発投手ローテーション」という発想を持ったのは藤本が初めてである。藤本の構想は見事に的中した。打撃陣は貧打にあえいでいたが、村山、小山の両エースは8月終了までに共に20勝を挙げており、チームの63勝のうち、2/3を稼いでいた。「ミスター・タイガース」の藤村富美男がなきあと、阪神の打撃は鳴りを潜めていたが、三塁・三宅秀史、遊撃・吉田義男、二塁・鎌田実という鉄壁の内野陣と、両エースの投手力で、少ない得点を守り抜くというスタイルが奏功していた。
9月5日、6日は大洋の本拠地、川崎球場で首位攻防の天王山、2連戦が始まろうとしていた。藤本はプロ経験こそないが、早稲田大学の野球部エースで、一方の三原は同じ早稲田大学野球部の7歳下の後輩であり、巨人では藤本が監督、三原が選手兼助監督という立場だったこともあるが、藤本が三原を「教え子」と呼んだことに、三原は強く反発した。互いに一歩も退けぬ戦いだった。
初戦となった5日の試合、阪神はエースの村山実、大洋もエースの秋山登という、ともに20勝投手の投げ合いとなった。試合は、村山が大洋打線を4安打に抑えながらエラーでの失点を含めて3失点し、一方の秋山は阪神打線を完封した。これで、大洋は首位・阪神に3ゲーム差に迫っていた。
翌9月6日、川崎球場で行われる対大洋戦の試合前、選手たちはいつものようにウォームアップを行っていた。この日の試合前、外野では阪神先発のエースの小山正明が、バッテリーを組む捕手の山本哲也と遠投によるキャッチボールを行っていた。山本と背中合わせのような形で、三宅は同じ内野手の安藤統夫とキャッチボールをしていた。
その日の小山はすこぶる肩の調子がよかったという。小山が勢いよく投じた一球は、山本の頭上を越えた。山本はとっさに「危ない」と叫んだ。しかし、すべては後の祭りだった。その声に左向きに振り返った三宅の横顔、しかも左眼を直撃したのである。その場にうずくまる三宅。三宅はすぐに担架に乗せられ、救急車で球場から川崎市内にある病院に直行した。
三宅と小山は共に、1934年生まれ、入団も同じ1953年。いわば同期の桜である。小山は高卒のテスト生、同じく高卒の三宅も決して期待されて入団した選手ではなかった。だが、この年、お互いに28歳を迎え、投打の主軸としてタイガースを牽引する立場になっていた。そして、初めて優勝に手が届きそうなシーズン終盤の大事な一戦を前に、不慮の事故が起きた。しかも、三宅は前日の試合まで、前人未到の700試合連続フルイニング出場を続けていた。
小山は明らかに動揺していた。その三宅が試合前に自分が投げたボールのせいで、病院送りとなったのだ。小山は「針の穴を通すような制球力」、「精密機械」と評されていた。そして、三宅の守備は、当時の長嶋茂雄を凌ぐほど一級品と言われていた。その二人がこのような事故を起こすとは、まさに皮肉としか言いようがない。
だが、藤本定義監督は、小山をマウンドに送り込んだ。それもそのはず、その年の阪神の先発ローテーションは村山と小山の二人を軸に廻っていた。その日まで小山が22勝、村山が21勝を挙げており、小山がいくら意気消沈していても、阪神が優勝を掴むためには、藤本は小山にすべてを託すしかなかった。藤本監督とヘッドコーチの青田昇は、茫然自失の小山に「おまえがしっかり投げることで、三宅が安心する」と異口同音に励ました。三宅の代役には、21歳の朝井茂治を立て、「7番・サード」で起用した。
小山は目の前の試合に集中するしかなかった。試合が始まると、小山は追いすがる大洋打線のクリーンアップから次々と三振を奪った。三番の桑田武、四番の森徹から2三振、五番のマックからも1三振を奪い、そのクリーンアップには1安打しか許さなかった。
試合は、阪神が大洋先発の権藤正利のエラーがらみで先制すると、1-0で迎えた8回に、三宅の代役、朝井がタイムリー二塁打を放ち、貴重な追加点を挙げた。この2点を小山が守り切り、2-0の完封勝利。小山は試合後、ヒーローインタビューもそこそこに、三宅の身を案じ、急いで病院に向かおうとしたが、午後10時で面会が打ち切られるため、見舞いを断念した。
次の日から、後楽園球場で4位の読売ジャイアンツとの4連戦が控えていたが、三宅の名前がラインアップに戻ることはなかった。三宅を失った手負いの虎は、巨人に4連敗した。9月12日に再び、大洋との首位攻防戦を迎えた。大洋はエース秋山、阪神も小山を立て、息詰まる投手戦となり、9回を終えて、両エースが一歩も退かず、0-0で延長戦に突入した。
延長10回表、小山はついに力尽き、走者を残して村山にマウンドを譲ったが、大洋は代わったばかりの村山から近藤和彦のタイムリーで先制点を挙げ、続く森徹の3ランホームラン。これで勝負あった。
続く9月15日の最下位の国鉄スワローズ戦でも、エース村山が金田正一との投げ合いで不覚を取り、1-2で敗れ、まさかの6連敗を喫した。阪神の打撃陣がこの連敗中に挙げた得点はわずか8点だけだった。
翌16日、小山は中3日、休養十分でマウンドに上がると、国鉄打線を完封し、ようやく連敗を止めた。9月19日、本拠地・甲子園球場に戻った阪神は広島、巨人を相手に4連勝を挙げ、息を吹き返した。
阪神と大洋の最後の天王山となる2連戦が甲子園で行われた。2年ぶりの優勝になりふり構わない大洋・三原脩監督は、エース秋山を2試合連続で先発させた。阪神も初戦は村山、2戦目は小山を先発に立てが、秋山は2日連続で阪神打線を完封した。この時点で、大洋がわずか6厘差で首位に再浮上したのである。三原は、かつての「上司」である藤本に意地を見せた。
しかし、大洋の追い上げもここまでだった。阪神は最下位・国鉄に3連勝すると、一方の大洋は下位の巨人に3連敗を喫してしまった。この時点で、残り1試合の阪神にマジック1が点灯した。大洋は残り4試合で一敗もできなくなった。10月2日、大洋は対巨人戦の先発に島田源太郎を立て、3-1で逃げ切り、阪神の優勝をひとまず阻止した。
10月3日、阪神は地元・甲子園球場で2万人の観客と広島カープを迎えた。先発・小山はこの年、47試合目、40回目の先発マウンドに上がった。阪神打線は、2回に3点を挙げ、小山を援護すると、6回には4番・藤本勝己が15号ソロホームランで突き放した。8回を終え、阪神は6-0とリードして最終回を迎えた。
最終回も、小山は甲子園のマウンドにいた。小山がカープの最後の打者を打ち取ると、その瞬間、スタンドから投げ込まれた無数の紙テープが甲子園の空中に舞った。藤本監督の胴上げが始まる前に、ファンたちが甲子園のグラウンドに雪崩れ込んだ。そんな喧噪が始まる前の一瞬、小山は思わず三塁ベースのほうに目をやったという。だが、そこに三宅の姿はなかった。
タイガースの選手たちの他にファンも加わり、藤本監督の胴上げが始まる。宙に舞う藤本の目には涙が光っていた。三宅の同期入団で、鉄壁の三遊間を組んできた吉田義男も、藤本を胴上げしながら、涙を流していた。それは、優勝の歓喜の涙というより、三宅がこの瞬間にグラウンドにいないことに対する涙だったという。チームメートの誰もが、寡黙だが頼りになる男、三宅の不在を悔やんだ。
シーズン終了直後に行われた優勝パレードにも、そして、初めての日本シリーズにも、三宅の姿はなかった。三宅を欠いた阪神は、パ・リーグの覇者・東映フライヤーズに対し、小山・村山を先発、リリーフにフル回転させて臨んだが、2連勝しながら、引き分けを挟んで4連敗を喫し、戦後初の日本シリーズ優勝を逃した。その間、三宅は病院のベッドに横たわったままだった。
翌年、1963年のシーズン中盤、ようやく三宅は元気な姿をグラウンドで見せた。そして、6月20日、甲子園での広島戦、ダブルヘッダー第1戦、「7番・サード」で先発メンバーに名を連ねた。だが、三宅の輝きは事故前には戻らなかった。負傷した左眼は失明をまぬかれたものの、視力0.1にまで低下していた。事故前まで5シーズン連続で二桁ホームランを放った長打力は影を潜め、三塁の守備につく機会も激減した。阪神は、前年優勝の反動が大きく、村山・小山の両エースも登板数が減り、三宅の穴を埋めるべく獲得したフランク・ヤシックが不振を極め、朝井も伸び悩み、貧打は一向に解消されなかった。阪神はなんとかAクラスは確保したものの、シーズン最終戦に敗れ、勝率5割を逃した。
その年のシーズンオフ、小山にも転機が訪れた。パ・リーグの大毎オリオンズの名物オーナー、永田雅一が1年前から阪神側に小山の獲得を申し入れていたのである。貧打解消を目指す阪神は、小山の放出を否定せず、大毎側に、交換相手としてパ・リーグを代表する中心打者となっていた山内一弘を指名していた。新聞での報道を見て知った小山は新天地を求める気持ちが強くなった。
1963年も暮れが押し迫った12月26日、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」が成立した。三宅の負傷が、小山の放出の遠因となったのだった。1953年入団の「同期の桜」、三宅、吉田、小山の3人が甲子園で、同じ縦縞のユニフォームを着てグラウンドに立つ機会は永遠に失われたのである。
1964年のシーズン、阪神は投手の柱である小山を失ったのにもかかわらず、ジーン・バッキーが29勝を挙げ、防御率1.89で投手2冠を獲得し、小山の穴を埋めてあまりある大車輪の活躍を見せると、打撃面では新加入の山内が開幕から4番に座り、31本塁打、94打点で懸案の貧打を解消した。セ・リーグのペナントレースは、2年前と同じように、阪神と大洋と一騎打ちとなり、8月に阪神が抜け出した。最後は7連勝でマジック1となり、迎えたシーズン最終戦となる中日とのダブルヘッダーの第1試合に勝利して、139試合目にリーグ優勝を決め、2年ぶりの歓喜を味わった。
だが、チームの激闘と歓喜をよそに、この年、三宅の先発出場はたった16試合となり、8月19日の国鉄戦を最後に先発メンバーに加わることはなかった。そして、川崎球場での不幸な事故からおよそ2年が経った9月1日、甲子園球場での巨人戦に代走で出場した三宅はそのまま三塁の守備位置に付いた。阪神が0-4で迎えた8回、打席に入ると、巨人の高橋明からシーズン3本目のホームランを放ち、完封を阻止した。この一発は、日本プロ野球39人目となる記念すべき100号だった。しかし、これが三宅にとって生涯最後のホームランとなった。
1964年の日本シリーズは、阪神と南海ホークスという関西のチーム同士が戦う、「御堂筋シリーズ」となった。東京五輪の影響で、全試合が初のナイトゲーム、かつ阪神がシーズン終了した翌日の10月1日からそのまま甲子園で始まるという、かなりの慌ただしさだった。
その第1戦、両軍の先発は、阪神が村山、南海はジョー・スタンカというエース対決で始まった。三宅は先発こそ外れたが、自身、日本シリーズ初の出番が廻ってきた。0-2で迎えた6回無死一塁に代打で登場したのである。初対戦となるスタンカから四球を選んでチャンスをつないだが、無得点に終わった。次の回から三塁の守備に入ると、8回は自身、日本シリーズ初ヒットでまた粘りを見せたが、阪神はスタンカの前に3安打完封負けを喫した。
第2戦、三宅は「六番・サード」で初のスタメン起用された。南海・杉浦忠らの投手陣の前に無安打に終わったが、試合は阪神が勝利した。三宅はその勝利の瞬間をサードの守備位置で迎えることができた。だが、第3戦から第5戦まで大阪球場で、三宅の出番は一切なかった。2勝2敗で迎えた第5戦を阪神が勝利し、3勝2敗でシリーズ初制覇に王手をかけた。
甲子園に還った第6戦、南海の先発・スタンカが3度目の先発で阪神打線を抑え込んでいた。第3戦でスタンカを捕らえた阪神は8回までヒットわずか2本。第1戦に続き、スタンカから1点も奪えない。一方、南海は先発のバッキ―から3点を奪って、終始有利に進め、9回表を終えて4-0でリードした。阪神は9回二死走者なしで敗色濃厚となったところで、不振の一番・吉田を迎えた。ここで藤本監督は代打に三宅を送った。だが、結果はスタンカの前に三振でゲームセット。これで勝負の行方は全く分からなくなった。
10月10日の土曜日の午後、快晴となった東京・国立競技場では東京五輪の開幕式が賑やかに行われた。その夜、甲子園では運命の第7戦が始まった。だが、阪神が勝てば初の日本シリーズ制覇だというのに、甲子園のスタンドには空席がかなり目立っていた。観衆はこのシリーズで最低の15172人しか集まらなかった。わずか10日前、平日の午後に、阪神のリーグ優勝を見届ようと甲子園に3万3000人もの観客が詰めかけたのが嘘のようであった。
阪神は先発に村山を立てたが、南海・鶴岡監督は前日完封勝ちを収めたスタンカに2試合連続で先発を任せた。村山は序盤から3失点し、一方、阪神の攻撃陣は連投のスタンカの前にまたもや打線が繋がらず、スタンカから点を奪えない。三宅は6回からサードの守備に入った(直後に、最初の守備機会でエラーを記録した)。回を追うごとに阪神に序盤の3点が重くのしかかってくる。7回の攻撃で三宅に打席が廻ると、三宅は三塁に内野安打を放った。執念の一打だった。そして、二塁盗塁も成功させた。だが、得点には結びつかない。
第5戦の8回以降、阪神のスコアボードには「ゼロ」が19個、並んでいた。9回裏もマウンドにはスタンカが上がった。スタンカは五番・藤井栄治、六番・並木輝男を難なく打ち取り二死となった。ここでバッターは三宅。「9回裏二死走者なし、スタンカ対三宅」という、昨夜と全く同じ光景になった。三宅はツーストライクと追い込まれた後、スタンカが投じた高めのボールにバットを振った。フルスイングだった。三宅のバットが空を切るのを見届けるが早いか、ボールを掴むのが早いか、キャッチャーの野村克也は小躍りしながら、マウンドのスタンカに駆け寄った。「御堂筋シリーズ」を制した南海の鶴岡一人監督の身体が甲子園の宙に舞った。
一方、またも敗軍の将となった藤本監督は試合後、「(3完封の)スタンカにやられた」と言うのが精いっぱいだった。同時に、三宅は自らの空振り三振で、自身、最初で最後となる日本シリーズを終えた。
皮肉にも、日本シリーズのテレビ中継の解説者席には、全試合、東京オリオンズの一員となって2年目の小山正明が座っていた。2年前、小山と吉田は三宅と共に日本シリーズを戦うことができなかった。そして、2年後、今度は自分がその場にいなかった。小山は甲子園のグラウンドを見下ろして、かつての同僚、三宅、吉田たちが敗れる姿をどのような気持ちで眺めていたのだろうか。
その後、阪神が次のリーグ優勝、そして初の日本一に輝くのは、21年後の1985年、選手として2度のリーグ優勝と日本シリーズ敗北を知る、吉田義男が監督となって率いる時まで待たなければならなかった。
1966年からコーチ兼任となった三宅は1967年、1試合だけ代走で出場し、そのオフに現役を引退した。まだ33歳の若さであった。三宅の背番号「16」は、三宅に憧れていた岡田彰布が1979年にドラフト1位指名を受け、希望して背負った。岡田は三塁手として攻守の中心選手となり、吉田監督の下、1985年の日本一に貢献した。
実は三宅は事故以外にも私生活で不運に付きまとわれた。それは事故以前の現役時代から始まっていた。事故の後、そして引退後と二度も改名した。阪神のコーチの職も手放し、他チームからのオファーも断り、野球の世界から身を引いた。たまのOB戦でタイガースのユニフォーム姿を見せる程度となっていた。
吉田義男が阪神タイガースを2度目の日本一に導いた後、1991年に半年ほどフランスの野球のナショナルチームを率いたことがあったが、それに同行したのが、同期の三宅であった。野球の世界から距離を置いた三宅を、吉田が連れ戻したのである。
それから月日が流れ、2014年8月1日、甲子園での巨人戦で金本知憲が701試合連続フルイニング出場を果たしたとき、試合後に花束を渡しに甲子園のグラウンドに姿を見せたのが三宅だった。三宅は自分の記録を52年ぶりに破った金本を笑顔で称えた。一方、その試合でテレビ中継の解説を務めていた吉田義男は、スタンドからその光景を眺めながら、あの52年前の優勝の瞬間のように、また涙していた。
三宅と吉田が最後に会ったのは、去年の10月だという。
86歳になった三宅は病魔と闘っていた。吉田は、三宅が住む三重県まで足を運び、二人で食事をし、語らった。吉田は帰り際に、病気で弱った三宅に「元気を出せ」と言った。
今度は三宅が涙した。1952年12月6日、阪神タイガースの入団発表で、共に同じ縦縞のユニフォームに袖を通してから58年の月日が流れていた。それが二人の今生の別れとなったという。
甲子園の三遊間という土のグラウンド、その同じ空間を共有した者だけがわかりあえる涙だった。