福を呼ぶ珍事「1イニング2併殺打」とさらにレアな「四重殺」
ロッテ、NPB史上6度目の「1イニング2併殺打」
2021年4月28日、メットライフドームで行われた埼玉西武ライオンズ対千葉ロッテマリーンズで、NPB史上6度目の「珍事」が起こった。
この試合、2-2の同点で迎えた8回、西武の栗山巧が今季1号となるソロホームランを放って勝ち越し、西武が3-2で勝利したが、珍事は初回、ロッテの攻撃で起きた。
西武・先発の今井達也がマウンドに上がった1回表、ロッテの攻撃は、先頭の荻野貴司が四球を選び、無死一塁。バッターは2番のマーティン。マーティンは2球目を引っ張ると、ファーストゴロ。一塁手の呉念庭が捕って、セカンドへ送球すると、ベースカバーに入った遊撃手の源田壮亮がベースを踏んでワンアウト。そして、源田が併殺を狙って一塁へ送球した際、一塁のベースカバーに入った投手の今井が捕球し損ない、しかも、今井の顎に直撃した。
幸い、今井は大事に至らなかったが、その後、ロッテは3番・中村奨吾のレフトオーバーの二塁打で1点を先制。続く4番・安田尚憲が四球を選び、なおも1死一、二塁のチャンスとなったが、5番・角中勝也はピッチャーゴロ。今度は捕った今井が素早く遊撃手の源田に送球、そして一塁手の呉と渡って、1-6-3の併殺打となり、スリーアウトチェンジ。
一見、何の変哲もないよくある光景だが、この瞬間、NPB史上6度目となる、「1イニング2併殺打」が記録された。
NPBの過去の「1イニング2併殺打」
NPBで「1イニング2併殺打」が起きた試合は次の6試合である。
NPB初の「1イニング2併殺打」は1962年8月1日 南海対東映戦
では、NPBで最初に記録された「1イニング2併殺打」はどんな試合だったのだろうか。
NPB最初の「1イニング2併殺打」は、1962年8月1日、南海ホークス対東映フライヤーズ(大阪球場)のダブルヘッダー第1戦で起きた。
1回裏、東映の先発のマウンドに、大型新人の尾崎行雄が上がった。尾崎は大阪・浪商高校2年生の夏に、甲子園優勝投手となり、「怪童」と呼ばれた。その秋に浪商を中退すると、すぐに東映入りした、翌年1962年に、17歳でプロデビューすると、オールスターまでに18勝を挙げるという獅子奮迅の働きをし、新人ながらオールスターファン投票で選出された。しかし、7月11日で挙げた18勝目を最後に、そこからパタリと勝てなくなった。
この日の東映は初回、3点を挙げて、尾崎を援護した。尾崎はその裏のマウンドに上がったが、南海打線に立ち上がりを攻められた。1点を奪われ、なおも、無死満塁のピンチとなり、5番のケント・ハドリを迎えた。ここで尾崎はハドリをセカンドゴロに打ち取ると、二塁手の青野修三が掴んで、二塁ベースカバーに入った遊撃手の岩下光一に送球、そして、岩下はファーストに転送した。これで4-6-3と渡ってダブルプレー成立、となるはずが、東映の一塁手の吉田勝豊が捕球エラーし、ボールが転々とする間に、三塁走者、二塁走者がホームイン。あっという間に、3-3と追いつかれた。尾崎は続く、6番の井上登を再び、セカンドゴロに切ってとると、今度は4-6-3と転送されて、ようやくチェンジ。
だが、尾崎は2回以降も、立ち直ることができず、5回2死、3番・ピートに3ランホームランを浴びたところでついにノックアウト。4回2/3、8失点(自責点6)で降板した。
さらに南海は追加点を挙げて11-6となったが、ここから東映打線が粘りを見せ、ホームラン攻勢で5点差を追いつき、尾崎は敗戦投手をまぬかれた。その後、試合は延長に突入したが、決着がつかず、12回を終えて、11-11の引き分けとなった。
尾崎はその後も勝利に恵まれなった。9月11日に18歳の誕生日を迎えると、19勝目を挙げたのは、東映が9月30日にリーグ優勝を決めた直後、18勝を挙げてから2か月半後の10月3日、西鉄戦(平和台球場)であった。シーズン残り3試合となった10月6日の阪急戦(西宮球場)のダブルヘッダー第1戦、同点で迎えた場面でリリーフ登板し、2回を無失点に抑えると、味方がサヨナラ勝ちしたため、ようやくシーズン20勝を挙げた。これで尾崎は文句なしのパ・リーグ新人王となった。
「18歳で新人王受賞」はいまだNPB史上最年少記録であり、新人投手によるシーズン20勝は、尾崎の後に3人(池永正明、木田勇、上原浩治)しか現れていない。
なお、「1イニング2併殺打」に話を戻すと、面白いことに、守備側のチームはすべてその年、日本シリーズ制覇(1962年の東映、2011年の中日)か、リーグ2位(1964年の大洋、1989年の広島、2010年の西武)を記録しており、西武にとっては縁起のよいジンクスとなる。
南海が記録した、さらにレアな「四重殺」
また、南海はNPB最初の「1イニング2併殺打」を記録しているが、面白いことに、実は同じ1962年、「1イニング2併殺打」に先立って、7月12日の南海対東映戦(大阪球場)ではさらに珍しいプレイが起きていた。
東映が初回無得点で迎えた1回裏、南海の先頭打者の広瀬叔功が四球、2番の大沢啓二が送りバントするとこれがフィルダーズチョイスでセーフ、3番のバディ・ピートがさらにバントするとこれが内野安打となり、無死満塁のチャンスとなって、東映先発の久保田治を攻め立てる。
ここで4番・野村克也を迎える。ここまで20本塁打の野村はサードゴロ。東映の三塁手、西園寺昭夫はゴロを掴むやいなや、バックホーム。しかし、西園寺の送球がワンバウンドとなり、捕手の安藤順三が落球する間に、俊足の三塁走者・広瀬が先制のホームイン。さらに無死満塁で南海のチャンスは続く。
打席には5番・ケント・ハドリ。ハドリは打球を高く打ち上げると、ライトフライ。この打球の行方を見て、南海の3人の走者全員が一斉にタッチアップで次の塁を狙う。東映の右翼手の毒島章一が打球を掴んでバックホームするが、その返球が逸れ、まず三塁走者の大沢がホームイン、さらに捕手の安藤が後逸する間に、二塁走者のピートも一気にホームを突いたが、これは本塁ベースカバーに入った投手の久保田に返球され、タッチアウト。そして、一塁走者の野村は二塁に廻ったところで挟まれ、挟殺プレイでタッチアウト。南海の攻撃は2得点したものの、一気にスリーアウトチェンジとなった。
しかし、ここで東映の三塁手の西園寺が審判にアピール。西園寺は、三塁走者の大沢がタッチアップの際、毒島の捕球よりも離塁が早かった、と申告すると、審判はこれを認めた。
となると、公式記録では、大沢のアウトが3アウト目となり、野村のタッチアウトは4アウト目(記録上は「残塁」)ということとなり、NPB史上初の「四重殺」が成立した。
勿論、大沢のホームインは認められず、南海は1点止まりで攻撃を終了した。
その後、南海は東映に勝ち越され、野村の21号ソロホームランで追いついたが、反撃はその1点だけで、一方の東映は4番・張本勲のヒット、二盗、三盗を足掛かりに再び勝ち越し、3-2で勝利した。
当時の南海は鶴岡一人監督が序盤の成績不振の責任を取って、5月下旬から休養し、蔭山和夫が代理監督として指揮を執っており、6月後半から11連勝を挙げて、最下位から首位・東映を追い上げていたが、とんだ水を差す敗戦となった。
つまり、1962年の南海は、わずか1か月の間に、NPB史上唯一の「四重殺」、NPB史上初の「1イニング2併殺打」を記録し、併殺に祟られたシーズンだった。
南海は後半、鶴岡監督が復帰し、首位・東映を追い挙げて、一時、20ゲームあった差を5ゲーム差まで縮めたが、2位に終わった。東映は水原茂監督の下、球団創設17年目にして、初のリーグ優勝、そして日本シリーズで阪神タイガースを破って初の日本一を果たした。