【1946年4月27日】戦後最初のプロ野球公式戦が開催、大下弘がデビュー
阪神タイガース・佐藤輝明が、今日4月27日、中日ドラゴンズ戦(バンテリンドーム)で、中日先発の左腕・大野雄大から今季7号ホームランを放った。NPBの歴史で、ドラフト制導入(1966年)以降、新人の野手が4月末までに7本のホームランを放ったのは、2003年の横浜ベイスターズの村田修一以来である。(それ以前は、1950年の毎日オリオンズの戸倉勝城の9本(31試合)であるが、戸倉のデビューは35歳であった)
そして、いまから76年前の今日、1946年4月27日は、戦後日本で最初のプロ野球の公式戦が開催された日である。
戦後のプロ野球は8チームで再開した。
その日、東の後楽園球場では、中部日本対金星ゴールドスターズ、巨人対セネタース、西の西宮球場では、阪急軍対近畿グレートリング、大阪タイガース対太平パシフィック戦という、変則ダブルヘッダーが開催された。
新設されたセネタースには、大下弘という23歳の若者も交じっていた。
大下は戦後の復興期に、「青バット」で人気を博することになるが、この日が公式戦のデビューであった。
実は終戦直後に開催された、日本職業野球東西対抗戦で、大下弘は無名の新人としてデビューし、4試合で15打数8安打、12打点、1本塁打、打率.533で、最優秀選手賞を獲得していた。特に第3戦、西宮球場で放ったホームランは、115メートルも距離のあるライトスタンドを超えた特大アーチであり、観客のみならず、職業野球の選手たちにも強烈な印象を残していた。
それから約5か月後の4月27日、戦後初の職業野球公式戦となった後楽園球場での第2試合、セネタース対巨人戦で、大下はセネタースの一員として背番号「3」を背負い、「三番・センター」で先発出場した。巨人の先発・近藤貞雄(中日ドラゴンズ元監督)の前に、ファーストゴロ、三振、ライトフライ、三振に終わった。試合は12-0で巨人が圧勝した。
大下が最初のホームランを放つのは、それから1か月後、6月2日の中部日本戦(西宮球場)である。その日、大下は「4番・ピッチャー」で先発出場すると、3回、二死満塁のチャンスで打席が廻ってきた。中部日本の先発・林直明が投じた2ボール・1ストライクからの4球目、大下は内角の速球を叩くと、打球はライトスタンドに飛び込んだ。グランドスラムであった。
そこから、大下は打者に専念し、本塁打を量産した。8月31日の金星戦(後楽園)で、11号本塁打を放つと、戦前のプロ野球記録に並んだ。そして、11月5日、シーズン最終戦となる巨人戦(後楽園)で、巨人先発の川崎徳次から、大下は20号ホームランを放った。引っ張り専門の大下がこの年、レフト方向に打った最初で最後の本塁打であった。
そして、大下弘がつくった新人の左打者によるシーズン20本塁打という記録はその後、76年間、いまだに誰にも破られていない。
それに挑むのが、阪神・佐藤輝明である。