【張本勲さんサンモニ卒業】張本勲がNPB通算最多安打に並び、更新したのはいつか?

「球界のご意見番」こと張本勲さんが、1999年から23年間に渡って出演を続けてきたTBSの情報番組「サンデーモーニング」を「卒業」した。


張本勲さん「サンモニ出演23年」は、プロ野球人生と同じ長さ

張本勲氏「サンデーモーニング」卒業 23年間出演で「一番うれしかったのはカズ」 - スポニチ Sponichi Annex 野球


張本勲さんは御年81歳、毎週日曜の朝、「サンモニ」のスポーツコーナーのご意見番的存在として23年におよび、「喝!」「あっぱれ!」と叫んできた。
奇しくもこれは張本さんの野球人としての現役生活と同じ長さである。

「大沢親分」に誘われて出演、共演へ

「サンデーモーニング」の名物コーナーであった「週刊御意見番」だが、実は1999年7月に始まった当初は、日本ハム監督などを務めた大沢啓二さんが一人で出演していた。

大沢啓二さんは立教大学野球部では長嶋茂雄さんの先輩格に当り、南海ホークスに入ると、外野手として野村克也さん、立教の後輩である杉浦忠さんらと中心選手として活躍した。
現役引退後、39歳の若さでロッテオリオンズの監督に就任、その後、日本ハムファイターズの監督として1981年にリーグ優勝を果たした。
大沢さんは1993年に再び日本ハムの監督に復帰してから、当時まだ「不人気」をかこっていたパ・リーグに注目を呼ぼうと奮闘した。
サングラスにべらんめえ口調から発するユニークな発言でその個性的なキャラクターに脚光が当てられるようになった。
大沢さんが監督に復帰した日本ハムはリーグ2位と躍進し、「大沢親分」と呼ばれていたことで、その年の「流行語大賞」では大衆語部門でも「親分」が金賞を受賞した。
翌年最下位に転落して監督を退いてからも、テレビに引っ張りだこで、いつも羽織袴姿で出演するなど、人気者であった。

大沢さんが「サンデーモーニング」に出演し始めた当初、コーナータイトルは「親分は怒ってるんだぞ」であった。
「あっぱれ!」「喝!」というのは大沢さんが使い始めたものである。
それからしばらくして、大沢さんが張本さんに出演を持ち掛けたのである。

それで、二人は毎週、交互に番組出演することになったが、ある時、番組のスタッフの手違いで同じ週に二人の出演をブッキングしてしまったという。
ところが、大沢・張本のコンビでの出演は好評を博し、それがレギュラー化したのであった。

二人のコンビは10年ほど続いたが、2010年10月に大沢さんが逝去した。
これを受け、「ご意見番」は張本さん一人となり、毎週、野球界に限らずスポーツ界からOB・現役を問わず、選手・監督・コーチをゲストを迎える形式になった。
特に福岡ソフトバンクホークスの会長を務める王貞治さんは、張本さんと同級生(1940年生まれ)、かつて巨人でのチームメートという誼で、年始などの節目で特別ゲスト的な扱いで出演することが多かった
(張本さんの出演最終回も、王さんがゲストで駆け付けた)

大沢さんの葬儀で張本さんは「大沢さんの代役が務まるか不安です」と殊勝なコメントをしていたが、そんな心配は無用で、いつしか、「あっぱれ」「喝」は張本さんの専売特許となっていた。

「直言居士」張本勲が物議を醸した発言の数々

また、番組内での張本さんの発言は、度々、物議を醸してきた。
NPBからメジャーリーグに移籍した選手に「通用しない」など厳しい発言を投げかけたり、野球選手はもとより、それ以外のアスリートに対してもかつての「根性論」をベースにした物言いをしたりと、番組終了後、すぐさまネットで「炎上」することもしばしばであった。
張本さんの「口撃」の対象になることもあったダルビッシュ有はTwitterで公然と張本さんの発言について苦言を呈することも度々であった。
また、番組内でも、別のコメンテーターと意見の相違があり、その態度に張本さんが立腹したことで、そのコメンテーターが「降板」を余儀なくされたこともあったという。

記憶に新しいところでは、今年、東京五輪で女子ボクシング競技で金メダルを獲得した入江聖奈選手について、張本さんがジェンダーを無視した発言をしたとしてボクシング連盟からクレームを受け、番組内で共演するキャスターが本人に代わって謝罪するという事態も起きた。

だが、時代錯誤ともいえる張本さんの「放言」の数々は、日本の中高年男性の一部を「代表」するような発言ともいえた。
視聴者からは張本さんを支持する声もそれなりにあったと推察され、ネットでの「炎上」の責任を取って番組を即、「降板する」ような事態には至らなかった。

確かに、張本さんの発言には私も賛同しかねるところはあった。

だが、番組を見ていて思ったのは、サンモニは比較的、マイナースポーツにも脚光を当てており、張本さんは野球以外のスポーツについても、テレビなどの観戦を通じてよく勉強されていたと感じた。

実際に張本さん自身も、評論家を務めるスポーツニッポンの手記(前述の記事)で、出演の前々日の金曜、前日の土曜は、資料を調べることに時間を費やしていたと語っており、80歳を過ぎてこれを毎週、続けるのは、よほど気力を持たないとこなせなかったにちがいない。

番組にゲスト出演したことがある、ソフトバンクホークスOBの斉藤和巳氏も、
「(張本さんは)本番前の打ち合わせ…誰よりもメモをされていた。誰よりも情報を頭に入れられていた」と明かした。

“喝!”卒業 張本勲氏の素顔を共演者が明かす「TVとその裏では違う姿を見た」/デイリースポーツ online


今回、張本さんのほうから「卒業」を申し出たということになっているが、番組制作サイドとしても、もしかしたら、これまでの発言の累積に、女性ボクシングへの問題発言がトドメを刺したのかもしれない。
ご本人もここまで物議を醸すのであれば、もう結構、そこまでして番組に出続けることはない、ということかもしれない。

ただ、張本さんの年齢を考えれば、実態はともかく「勇退」「卒業」という花道をつくってあげてもいいだろう。

そして、「聖人君子」のイメージが強い王貞治さんとは対照的に、好き嫌いはあるだろうが、張本勲さんがバットマンとして残した功績は色あせない。


「バットマン」張本勲が残した通算最多安打記録

周知の通り、NPBの通算安打記録は張本勲の3085安打である。
東映フライヤーズを振り出しに、日拓ホークフライヤーズ、日本ハムファイターズとチーム名が変わり、その後、巨人、ロッテと渡り歩いて23年で築き上げた勲章である。

そして、その後を追ったのがイチローである。
イチローはオリックスでNPB通算1279安打を積み重ねた後、2001年に渡米し、MLBのシアトル・マリナーズに移籍すると、メジャーでも安打を量産した。
8年後の2009年4月15日、マリナーズの本拠地、セーフコフィールドで、観戦に来ていた張本勲の眼前で日米通算3085安打に並んだ。
しかも、イチローらしく、節目の達成は劇的なグランドスラム、満塁本塁打だった。
そして、イチローは翌日の試合で、今度は張本を抜く3086安打目を放った。
(張本は翌日の飛行機で帰国予定だったという)
1995年に、張本がオリックスの春季キャンプを視察した際、レギュラーに定着したばかりのイチローを見て、「オレの記録を抜くのは君だ」と声をかけたというのは有名な逸話だ。そして、14年後、それが張本の立ち合いの下、現実のものとなった。

イチローが張本勲の通算安打数に追いつき、追い抜いたシーンは、映像にも記憶にも残っている。
だが、果たして、張本がNPBの通算安打記録に並び、追い抜いたときはどうだったのだろうか?

張本勲が日本歴代最多安打の頂点に立った日

まず、Wikipediaで、「張本勲」のページを見てみる。

張本勲 - Wikipedia


張本勲が通算1000安打、1500安打、2000安打、2500安打、3000安打などのマイルストーンを達成した日付についての記載はあるが、驚くべきことに、NPB通算安打記録を打ち立てた歴史的な偉業の詳細については何も言及がないのである。

そこで、張本勲より以前にNPBの通算安打記録を持っていたのは誰だろうかと考えてみると、やはり野村克也だろう、という想像が働いた。

Wikipediaで「野村克也」のページに行って、読み進めてみると、こんな記述があった。

野村克也 - Wikipedia


「打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。」

生前のノムさんのボヤキにも似た、なんとも悲哀たっぷりな書きようだが、いずれにしても、張本勲が野村克也のNPB通算安打記録を抜いたのは1978年のシーズンだということが判明した。
それで、Wikipediaで張本勲のページをもう一度、読んでみる。
1978年のシーズンといえば、張本は東映からすでに巨人に移籍した後である。

「1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。」

張本が同年に設立された「名球会」に入会したことについての記載はあるが、やはり、NPB通算安打記録を更新した件については全く触れられていない。
そこで、頼みは検索エンジンである。
しかし、いろいろなキーワードで試してみたが、「張本 通算安打 トップ 1978年」などで検索しても、それについて書かれた記事やサイトを探しあてることができない。

そこで、1977年シーズン終了時点での、野村克也と張本勲の通算安打数を調べてみた。
すると、野村克也が2813安打、張本勲が2770安打であることが判明した。
この時点で43本差である。

通算安打数ベスト5の推移



1978年の野村克也と張本勲


こうなれば力業しかない。
1978年シーズンの野村克也と張本勲の打撃成績を開幕から1試合づつ、調べることにした。
幸いというべきか、「日本プロ野球記録(2689web.com)」というサイトがあり、1936年の一リーグ時代からの全試合の結果と個人の打撃成績、投手成績を調べることができる。

読売ジャイアンツ 1978年


ロッテ・オリオンズ 1978年


野村と張本の4月の打撃成績を1試合づつ拾っていくと、

・野村克也 33打数5安打 0本塁打 (通算2818安打)
・張本勲 53打数14安打 2本塁打 (通算2784安打)

4月終了時点で、両者の差は34本に縮まっている。
野村は前年の1977年シーズン終盤、南海のプレイングマネージャーを解任され、オフに退団。しかし、自ら「生涯一捕手」と名乗り、金田正一監督率いるロッテに移籍、42歳でシーズン開幕を迎えたが、攻守に衰えは隠し切れなかった。
野村は開幕シリーズこそ「6番・捕手」で先発出場したが、わずか10試合足らずでスタメンを外れることも多くなった。
一方の張本は37歳で、巨人移籍3年目を迎え、往年の長打力は鳴りを潜めていたものの、安打を打つ能力はまだまだ衰え知らず、開幕から「3番・レフト」を務めた。
4番には同級生の王貞治が座っており、長嶋・王の「ON砲」改め、王・張本で「OH砲」を形成した。

野村と張本の5月の打撃成績を見ると、

・野村克也 58打数11安打 1本塁打(通算2829安打)
・張本勲 86打数35安打 6本塁打(通算2819安打)

5月末の時点で、張本が野村に10本差にまで迫った。
張本は5月に入って、打撃の調子が上がり、5月の月間打率は4割を超え、5月下旬には王貞治の打率を抜いて、5月末時点で打率.353とチームトップに立った。本塁打数では王に及ばないものの、王に代わって、4番打者を務めることも多くなっていた。

一方、野村の出場機会は日に日に減っていった。
5月1日に近鉄戦(県営宮城球場)で、鈴木啓示からようやくシーズン1号(通算646号本塁打)をから放ったが、その後、スタメンを外れ、代打や途中からマスクを被ることが多くなっており、打率も2割を切ったままで打撃は上向かなかった。

そして、6月。張本は相変わらず好調を維持していた。
間違いなく、野村の持つNPB最多安打記録の更新を意識していたに違いない。
一方の野村は、6月10日の近鉄戦(日生球場)でシーズン14本目の安打を放ち、通算2827安打。
張本は6月11日の大洋戦(横浜スタジアム)でシーズン9号本塁打を放ち、ついに通算2826安打。野村にあと1本まで迫った。

張本勲、野村克也に並ぶ日本最多安打タイ記録をホームランで達成

張本の巨人は休養日を1日挟み、6月13日からは本拠地・後楽園でダブルヘッダーを含む阪神4連戦が控えていた。
一方、野村のロッテは6月11日から13日まで試合がなかった(梅雨時だがそれが雨天中止の影響があったかどうか確認できず)。
6月13日の阪神戦、張本は「4番・レフト」で先発出場すると、先発の古沢憲司から10号ソロホームラン(通算470号本塁打)を放った。
ついに張本は野村の通算安打数である「2827」に並んだ。

つまり、張本も、野村に並んでNPB通算安打数タイ記録になったときは、イチローが張本の通算安打に並んだ時と同様、ホームランで決めていたことがわかった。
しかし、そのことについて書かれた記事は、ウェブでは見つからなかった。

張本勲と王貞治、二人で同じ日に野村克也の「日本記録」を超える

翌6月14日、張本は後楽園球場で阪神とのダブルヘッダーに臨んだ。

デーゲームで行われた第1試合、1回裏の巨人の攻撃で、3番・王貞治が走者を一人置いて、ライトスタンド上段に叩き込む逆転アーチを放った。
この一発が、実に10試合、44打席ぶりの一発であったが、日本新記録となる17年連続となるシーズン20号到達になった。
これまでは野村克也がつくった16年連続が最長であった。
と同時に、野村克也の通算打点「1947」を更新し、通算1949打点としたのだった。

一方、4番に入った張本は記録更新へのプレッシャーからか、4打席目までノーヒット。
試合は巨人が6-7と1点ビハインドの9回二死走者なしの場面、張本に5度目の打席が廻った。
阪神3番手の江本孟紀と、この日、3打席目の対戦となった。
奇しくも、江本は南海時代にキャッチャー・野村と出会って投手としての才能を開花させており、野村の「一番弟子」ともいえる存在であった。

一方で、江本にとっては張本も「恩人」であった。
江本が東映に入団した新人時代、先輩の主力打者たちへの打撃投手を務めていたが、ことごとくストライクが入らず、罵声を浴びせられた。
そんな中、張本だけは文句を言わず、江本が投じたどんなボールでも打ち返したという。
そうしていくうちに、江本のボールは次第にストライクゾーンに行くようになった。
江本は「あの時、張本さんが打ってくれなければ、プロ野球を諦めていたかもしれない」と述懐する。
この時、江本は「恩人」と「師匠」、二人の記録の狭間に立ち、複雑な気持ちだったであろう。

しかし、張本は江本の投じた球を捕えると、打球はライト線へ。
通算2828本目の安打を放って、とうとう野村を超えた。
張本勲が日本球界でバットマンとして頂点に立った瞬間であった
(試合はそのまま6-7で巨人が敗れた)

張本は試合後、記者に対してこう語った。

「いま思えば、知らず知らずのうちにプレッシャーがあったな。
なんといっても日本記録ですから。これで明日から楽に打席に入れます。
次の目標は3000安打。」

第2試合でも張本は3打数1安打、王は1打点を挙げ、それぞれ野村を突き放した。

一方、野村はナイターで行われた日本ハム戦(川崎球場)に途中出場したが3打数0安打に終わった。

1日して、王・張本のOH砲に三つの「日本記録」を破られた野村克也は報道陣に対し、

「2000打点、3000安打の一番乗りを目指していたんやが・・・
天下のOHに抜かれたのなら仕方ない。おめでとうと言わせてもらうよ」

と淡々と語ったという。
その日を境に、野村が張本の通算安打数、王の通算打点数に追いつくことはなかった。

6月19日に38歳を迎えた張本はそのシーズン、最終的に打率.309、21本塁打、131安打を放ち、新人から20年連続でシーズン100安打以上という大記録を打ち立て、通算安打を2901に伸ばした。

張本勲、3000安打への試練、盟友・王貞治の「直訴」

だが、ここからが張本にとって本当の試練だった。
39歳を迎える1979年のシーズンで通算3000安打の達成は可能だとみられたが、春先から故障に見舞われ、シーズン77試合の出場、わずか60安打、8本塁打に留まり、プロ入り後、初めて規定打席未達、かつ100安打、二けた本塁打を切った。
張本の成績の降下の原因は、右ひざの痛みに加え、目のかすみ、中心性網膜炎であった。
しかも、シーズン終了時点で2961安打と、3000安打まであと39本と迫りながら、巨人は張本と契約を結ばなかった。
5年目を迎えた長嶋巨人はシーズン5位に沈んだ。
優勝請負人として長嶋巨人に請われてやってきた張本にも非情な通告が下った。

シーズンオフ、同級生で「盟友」であった王貞治は張本が「放出」されることをいち早く聞きつけた。
チームの納会の席で当時の正力亨オーナーに張本を伴って挨拶した際、「事件」が起きた。

王は正力を前に、こう切り出した。

「巨人のために張本君は必要です。張本君に巨人で3000安打を達成させてください」

王は正力に向かって、張本の残留を「直訴」したのである。
それを見た張本は慌てて王を制して、王を連れて正力の前から立ち去った。
そして、張本は涙ながらに王に感謝したという。

1977年9月3日、後楽園球場で王貞治が、メジャーリーガーのハンク・アーロンが持つ775本塁打を追い抜く756号本塁打を放ったときも、ネクストバッターズサークルで飛びあがって喜んでいる張本を収めたモノクロ写真はあまりに有名である。

張本勲、1980年5月28日、古巣パ・リーグで3000安打に到達

その後、張本はパ・リーグへと還った。
自身3球団目となるロッテオリオンズに移籍したのである。
山内一弘監督の下、嫌っていたDHでの出場も受け入れると、1980年のシーズン開幕から安打を積み重ねた。
5月28日、本拠地の川崎球場で行われた阪急戦で山口高志から、ついに日本球界で前人未到の3000安打を放った。
しかも、この節目でもやはりホームラン(シーズン6号2ラン、通算495号本塁打)で決めた。
そして、張本は9月28日に、王、野村に次いでNPB史上3人目となる、通算500号本塁打に到達した。
張本はDHのおかげで出場機会を増やし、103試合に出場して打率.261、12本塁打をマークした。
そのオフ、野村克也は45歳、張本の同級生の王貞治は40歳で現役を引退した。

張本勲、41歳で引退を決意、1981年オフに引退

1981年、張本は41歳を迎えるシーズンとなったが、チームの快進撃をよそに、打率は2割そこそこに低迷。指名打者での出番も減り、ベンチを温めることが増えた。
ロッテが前期優勝を決め、消化試合となった6月25日、地元・川崎球場での西武戦は、前年の夏の甲子園で優勝投手となったドラフト1位ルーキー、愛甲猛のプロ初先発となった。
この試合で、41歳になったばかりの張本は3番・DHに入り、初回、西武先発の名取和彦から同点となる3号アーチを放った(その後、愛甲は打ち込まれ、2回途中でノックアウト、プロ初黒星を喫した)。
これが張本にとって通算504号本塁打となったが、まさか現役最後のホームランになるとは思わなかっただろう。

後期に入っても張本の調子は上向くことはなかった。
10月4日、シーズン最終戦となった西武ライオンズ球場での西武戦で、張本は代打で登場したが、西武の高卒新人投手、19歳の西本和人の前に凡退した。
これが張本にとって23年続いた現役生活で11222打席目、レギュラーシーズンでの最後の打席となった。

山内一弘監督が率いて前期優勝を果たしたロッテは、大沢啓二監督率いる後期優勝の日本ハムと日本シリーズ進出を懸けたプレーオフに進んだ。
10月10日に行われた第2戦、張本は「7番・DH」で4打席、立ったが3打数無安打、1四球だった。
5-5で迎えた9回、日本ハムのリリーフエース、江夏豊がマウンドにいた。
張本に打席が廻ったが、山内一弘監督は同じ左打者の新井昌則を打席に送った
(新井もこの年に現役を引退した)
それきり、張本の出番はなく、ロッテは日本ハムに1勝3敗1分けで敗れた。

同じ年、ロッテの後輩の落合博満がプロ入り3年目、28歳で初の首位打者を獲得した。
1981年は、パ・リーグを代表するバットマンの世代交代の年でもあった。

プレーオフ敗退からおよそ3週間後、10月30日に張本は現役引退を表明した。

「打てると思った球がファウルになったり、チップになったりした。
打てると思った球が打てなくなったのだから現役を引退するしかない。
体力の限界を知った」

張本は通算3085安打、504本塁打、319盗塁、終身打率.319などの数々の記録と共に、バットを置いた。

翌10月31日午後、親会社のロッテ本社で張本の引退会見が開かれた。
席上、記者から「現役時代に後悔はあるか?」と訊かれた。
張本はこう言い切った。

「何も思い残すことはない」
「もう、あのベースの前に立たなくてもいいと思うと、ホッとした気持ちのほうが強いです」

ロッテは日本シリーズ進出を逃した山内一弘監督が引責辞任していた。
張本が引退発表の前日、韓国の新聞が「張本がロッテ新監督に内定」と書き立てたが、ロッテ球団のフロントは「多くいる候補の一人」と慌てて否定した(結局、監督選びは難航の末、広島カープOBで近鉄コーチの山本一義に決まった)。
その後も希代のバットマンが、NPBのコーチ・監督としてグラウンドに立つことはなかった(張本曰く、監督就任のオファーは3度あったという)。

“史上最高のヒットメーカー”張本勲、引退【1981年10月31日】 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE


今回、張本さんは番組の卒業にあたって、

「23年間突っ走ってきて、シニア人生をゆっくり過ごしたいと。釣りもやりたいし盆栽もいじってみたい。やりたいことはたくさんある。」

現役引退から40年、張本勲さんは「サンモニ卒業」でついに心の安寧を得られることになるのかもしれない。

長い間、お疲れ様でした。

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