クリスマスになると思い出す、下柳剛の契約更改



1997年の下柳剛


「サンタさんはおるんやねえ。いい子にしておいてよかったよ」

 1997年の下柳剛はすごかった。
 来る日も来る日も投げ続けた。
 僕は当時、社会人になりたてだったが、仕事が終わると、帰り道に東京ドームに向かった。観戦するのは、当時、東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズ戦である。広告代理店に勤務する友人が、不人気だったファイターズ戦のチケットを融通してくれた。残業で試合が始まってしまっても、何とか駆け付けた。
 ファイターズの投手陣がピンチになると、イニングが浅くても、ファイターズの上田利治監督がベンチを飛び出す。相手のバッターが左打者なら決まって、左腕・下柳剛の名前がコールされた。いや、そうでなくても、下柳の名前がコールされた。
 下柳はその年、プロ入り8年目の29歳、ファイターズに移籍して2年目を迎えていた。当時のファイターズの先発陣は若い投手が多かった。序盤で走者がかさんで、ピンチを招くと、上田監督はたまらず、主審に「下柳」とコールした。ピンチを脱すると、下柳はそのまま何事もなかったように、2イニング、3イニング、・・・とスイスイと放り、その間に味方の攻撃陣が逆転し、勝利投手になることも多くなっていた。

根本陸夫と権藤博に鍛えられた「アイアン・ホーク」


 下柳が最初に入団したダイエーホークスでもその鉄腕ぶりには定評があった。当時、Bクラスのホークスを率いた根本陸夫監督と権藤博・投手コーチは、まだ若い下柳をマウンドに送った。その甲斐あって、下柳は投げても、投げても、「使い減りしない」投手になり、プロ4年目(1994年)にはリーグトップの62試合に登板、チームトップの11勝を挙げていた。「アイアン・ホーク」が下柳のあだ名となった。
 僕は、東京ドームで、下柳が登場するのが楽しみで仕方なかった。今日はどのタイミングで下柳が出るのか・・・上田監督がベンチを出る前に、下柳の登板を予想するのが常となった。

イチローの「216打席無三振」を止めて全国区、オールスターに


 下柳剛が「全国区」の投手になったのは、その年の6月25日、東京ドームでのオリックス・ブルーウェイブ戦だった。前年まで3年連続で首位打者のタイトルを手にしていたオリックスのイチローが、NPB記録となる「連続打席無三振」記録を「216」に伸ばしていた。6回表、第3打席を迎えたイチローは、下柳の前に2ストライクに追い込まれた後、5球目のストレートを空振り三振して、イチローの記録はストップした。試合もファイターズが2点ビハインドをひっくり返し、下柳にシーズン7勝目が転がり込むと、試合後、ヒーローインタビューを受けた。インタビューに答える無精髭の下柳の顔は、イチローの空振り三振のシーンと共に、その夜のスポーツニュースで繰り返し放映された。すると、その年のオールスターにも選出され(自身2度目)、しかも、オールスター前(7月21日)までにチームトップの8勝を挙げていた。

1997年、リリーフだけで「規定投球回数」に到達


 そんな下柳の奮闘もあって、ファイターズは8月下旬にはオリックス、西武ライオンズに次いで3位に浮上、勝率5割に戻したが、その後、大失速し、4位に終わった。下柳もオールスター以降はわずか1勝にとどまり、自身2度目となるシーズン二けた勝利はならなかった。しかし、66試合に登板し、チームトップの9勝(4敗)、防御率3.49。さらに驚くべきは、投球回数が147回で136奪三振。先発は1度だけあったが、それ以外はすべてリリーフ登板で規定投球回数に達してしまったのだ。

契約更改での名言「サンタはおるんやねぇ」で年俸1億円超え


 シーズンオフとなり、下柳は契約更改に臨んだ。下柳の当時の年俸は5600万円。これがどこまで上がるかが焦点となったが、下柳は初回、2度目の更改では合意せず。球団の提示額と、下柳の年俸希望額には開きがあった。そして迎えた、1997年12月24日、下柳はついに判を押した。当時の一流選手の証、年俸1億円超えとなる1億500万円。そして、契約更改後に、報道陣を前にした下柳は笑顔でこう言った。

「サンタさんはおるんやねえ。いい子にしておいてよかったよ」

2000年オフ、NPB初の代理人交渉

 下柳はその後も、契約更改では球団とすんなり合意に至らないことが多く、2000年のオフ、ついにNPB初となる代理人交渉に臨んだ(この年、計9選手が代理人を起用)。結局、下柳の年俸決定は調停委員会に持ち込まれ、裁定を経て契約合意したのは翌年、キャンプインした2月2日だった。

 その2年後、下柳はファイターズとの契約を打ち切られそうになりながら、2002年オフに阪神タイガースに移籍、2005年には37歳でNPB史上最年長となる最多勝のタイトルを手にし、リーグ優勝にも貢献した。

44歳でドジャーズのトライアウトを受験、不合格で現役引退

 僕は、全盛期の下柳は米国メジャーリーグでも通用すると思っていた。しかし、そのチャンスは訪れなかった。タイガース時代の上司であった星野仙一監督の後を追って入団した楽天を2012年オフに退団した後、44歳で渡米してロサンゼルス・ドジャーズのトライアウトを受験した。下柳はタイガース時代に1歳後輩でMLB帰りの伊良部秀輝をかわいがっていた。その伊良部は2011年の夏に、ロスの自宅で亡くなった。下柳はトライアウト受験前、伊良部のかつての自宅の近くまで足を運び、報告したという。下柳は最終選考まで残ったが、合格とはならず、そのまま現役引退を決意した。

荒々しいマウンドさばきに隠された優しい一面


 下柳は現役時代、登板後にベンチでグラブを放り投げて、投手コーチと衝突したり、マウンドで、エラーした野手に激高してグラブを叩きつけたりと、その風貌とともに荒々しい性分とみられていたが、私生活では愛犬を溺愛し、聴導犬育成を支援する心優しい男である。いまは、プロ野球解説者やタレントとして活躍しているが、僕は毎年、クリスマスになると、この契約更改のときのセリフと、サンタクロースのように見えなくもない、無精髭面の下柳剛のシャイな笑顔を思い出す。

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