阪神・ガンケル、開幕6連勝/虎外国人投手の連勝記録は?
阪神タイガースの右腕、ジョー・ガンケルが、6月24日の中日ドラゴンズ戦に先発、6回を投げて、被安打5、無四球、無失点に抑え、今季、無傷の6連勝を挙げた。
ガンケルは来日2年目を迎えた今季、開幕3戦目のヤクルト戦(神宮)で先発すると、6回無失点で、来日初の先発勝利を挙げ、そこから波に乗り、3・4月で4勝を挙げた。
5月9日のDeNA戦(横浜)で登板中に右肩の痛みを訴え、降板、その後、登録抹消された。6月6日のソフトバンク戦で復帰先発が予定されていたが、今度は喉の痛みと頭痛を訴え、登板を回避。6月13日の楽天戦(楽天生命パーク)で1か月ぶりの先発マウンドに上がったが、6回2失点と危なげない投球で見事、復帰を果たした。
ガンケルは来日1年目の昨シーズン、6月24日の初登板・初先発で結果を残せず、その後、リリーフに廻ったが、そこで真価を発揮、救援した22試合で2勝11ホールド、防御率2.10と結果を残した。
9月下旬から再び先発に復帰したものの、5試合で0勝2敗であった。
今季はゴロを打たせる投球が目立ち、被本塁打は4月11日のDeNA戦で、牧秀悟に許した1本だけで、守備にリズムが生まれているのか、援護点にも恵まれている。
開幕から先発した試合はすべて日曜のデーゲームであったが、初のナイトゲームでも安定した投球を見せた。
阪神の外国人投手が開幕から6連勝をマークするのは、1964年のジーン・バッキ―、2003年のトレイ・ムーア以来である。
2003年 トレイ・ムーア 7連勝
左腕投手のトレイ・ムーアはテキサス州ヒューストン出身で、1994年のMLBドラフト2巡目(全体48位)でシアトル・マリナーズに指名されて契約、1998年にモントリオール・エクスポズでメジャーデビュー、MLB初勝利を挙げた。
2002年に星野仙一監督率いる阪神タイガースに移籍、開幕2戦目の巨人戦に初登板・初先発し、6回を1失点に抑え、NPB初勝利を挙げた。その後も安定した投球を続け、オールスターにも選出された(第1戦で勝利投手になり優秀選手賞)。
この年、ムーアはエース井川慶に次いでチーム2番目の27試合に先発、10勝11敗、防御率3.33という成績を残した。しかも、大学時代、一塁手の経験もあったことから打撃もよく、来日初完投勝利を挙げた4月6日のヤクルト戦と、8月14日の横浜戦では、1試合3安打猛打賞を記録している。投手がシーズン2度の1試合3安打を記録するのは1985年の広島の川口和久以来、18年ぶりの快挙であった。
2年目の2003年は開幕3戦目の横浜戦でシーズン初登板・初先発、初勝利をマーク。そこから白星街道が始まった。3・4月はチームトップの4勝を挙げると、5月17日の巨人戦(甲子園)では、投げては8回無失点、打っては自らの決勝タイムリーで1-0で勝利し、ついに開幕から7連勝をマークした。この間、投球も防御率2.17と安定している一方、打撃のほうも打率.435という驚異的な結果を残していた。
開幕8連勝が懸かった5月24日のヤクルト戦(松山)では、2回に捕まり4失点でノックアウトされ、そのままチームが敗れたため、ついにシーズン初黒星がついた。
その後、7月10日の広島戦でシーズン10勝目を挙げて、早くも前年の勝利数に並んだ。オールスターファン投票では、タイガースの好調ぶりとムーアの打棒にファンからの投票が集まり、一塁手部門の投票で1位に桧山進次郎、3位にムーアが入るという「珍事」も起きた(投手部門では9位)。
だが、その後、ムーアは白星から遠ざかり、オールスター以降は0勝4敗で、終わってみれば、21試合の登板で、10勝6敗、防御率4.35、規定投球回にも達しなかなった。一方、打撃のほうは1年目を凌ぐ、打率.326を記録した。
この年、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たすが、開幕ダッシュに成功できたのは、ムーアの開幕7連勝を含む活躍も大きかった。
ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦に登板、7回1失点と好投し、サヨナラ勝ちを呼び込んだが、日本一の懸かった第7戦では3回に井口忠仁、城島健司に2発を浴び5失点で降板、日本一をもたらすことはできなかった。
翌年2004年には、オリックス・ブルーウェーブに移籍したが、16試合に登板して、6勝どまりで、真価を発揮できず、オフに退団した。
ムーアはNPB3年間で通算26勝だが、31安打、打率.295という打棒と共に、蓄えた口髭が記憶に残る助っ人の一人である。
1964年 ジーン・バッキ― 9連勝
ジーン・バッキ―はルイジアナ出身で、3Aハワイで右腕の投手としてプレーしていたが、日本のスポーツ新聞の記者の推薦を受け阪神の入団テストを受けた。長身からの直球とナックルボールを見た藤本定義監督が肝いりで獲得を後押しし、1962年のシーズン途中で入団した。このとき、バッキ―は24歳だった。
来日1年目は制球難で1勝も挙げられなかったが、投手生命を懸けて不退転の決意で来日したバッキ―は、通訳もいない中、日本文化に溶け込む努力も欠かさず、ハングリー精神を糧に制球力と複数の変化球を会得するなど急成長を遂げた。
来日2年目の1963年、バッキ―は5月26日の大洋戦に先発、大洋先発の稲川誠と共に、8回まで無失点に抑え、0-0の投手戦となった。しかも、バッキ―は8回までパーフェクトに抑える投球で、9回もマウンドへ。
大洋の先頭打者、近藤昭仁を打ち取り、あと二人。ところが、続く土井淳に四球を与え、完全試合は幻となった。
続く、打者は投手の稲川誠で、三塁側へ転がす送りバント。ところが、勝利を焦ったか、サードのヤシックが併殺を狙って二塁へ送球するもこれが悪送球となって、一死一、三塁のピンチを招いてしまう。
続く1番の島田幸雄はピッチャーゴロに打ち取り、二死。
バッキ―はNPB史上初となる、「プロ初勝利がノーヒットノーラン」という大記録まであとアウト1つまで来たが、ここで、途中出場でショートに入っていた伏兵・浜中祥和が打った当りはゴロとなってショートへ。ショートの吉田義男が追い付いて捕球態勢に入ったが、その直前、打球は二塁ベースに当たって跳ね返った。この間に三塁走者の土井淳が生還、なんとも不運な当たりによって、バッキ―はノーヒットノーランも逃し、結局、0-1で負け投手となった。
(注:その後、1965年10月2日に広島の外木場義郎が阪神戦でノーヒットノーランでプロ初勝利、1987年8月9日には中日の近藤真一が、プロ初登板の巨人戦でノーヒットノーランを記録している)
しかし、バッキ―はこれで自信を深めたのか、6月2日の中日戦(甲子園)ではNPB初勝利を完投で飾った。8勝を挙げたが、このオフ、村山実と並ぶ2枚看板エースの小山正明が「世紀のトレード」で東京オリオンズに移籍したことが、バッキ―のチャンスとなった。
バッキ―は、翌年の1964年は開幕2戦目の広島戦にロングリリーフで勝ち投手になると、3月28日の大洋戦では先発で起用されて2勝目、そこからは先発ローテーションに入り、勝ち星を積み重ねた。5月16日の大洋戦(川崎)では、早くも前年を上回る9勝目、開幕から9連勝を挙げた。
開幕10連勝を懸けて先発マウンドに上がった5月20日の広島戦(広島)でも、9回まで1失点に抑えたが、味方の援護がなく、10回裏に9回2死から阿南準郎にサヨナラタイムリー安打を打たれ、ついに連勝が止まった。この間、完投勝利は5回とタフネスぶりを発揮した。
外国人投手の開幕から連勝記録は、1988年に西武ライオンズの郭泰源が開幕10連勝するまで、バッキ―の開幕9連勝が最長記録であった。
その後、バッキ―は5連勝を挙げると、オールスターまでに17勝4敗を記録した。後半も順調に勝ち星を重ねると、エース村山実を凌ぐ29勝(9敗)を挙げ、防御率1.89で、最多勝・最優秀防御率の投手2冠を獲得、外国人投手として初の沢村賞も受賞した。先発した38試合のうち、完投が24回という、まさに大車輪の活躍であった。
バッキ―の覚醒により、小山正明の離脱による先発投手陣の穴を埋めた阪神はリーグ優勝を果たすことができたといっても過言ではなかった。
東京五輪開催直前に行われた日本シリーズは、南海ホークスとの「御堂筋シリーズ」となったが、バッキ―は第2戦に先発して、杉浦忠に投げ勝って勝利投手となった。第3戦、第5戦ではクローザーを務め、第6戦では再び先発したが、ジョー・スタンカに投げ負け、第7戦では村山実の後を受けてロングリリーフで無失点に抑えたが、日本一には届かなかった。バッキ―は7試合中、5試合に登板する獅子奮迅の活躍を見せた。
バッキ―は翌1965年以降も、外国人投手としてNPB初の5年連続で二桁勝利、防御率2点台と安定した成績を残し、1965年6月28日には巨人戦(甲子園)でノーヒットノーラン、1968年8月27日の広島戦(広島)では、来日外国人投手としてはジョー・スタンカ(南海)と並び、史上2人目となるNPB通算100勝もマークした。
しかし、その年の9月18日、巨人戦で王貞治への危険球を巡って、両軍で乱闘となり、その際、興奮したバッキ―は巨人の荒川博コーチを利き腕の右手で殴ったことで骨折し、そのオフに阪神を退団した。
翌年、近鉄バファローズへの移籍で再起を目指したが、今度は腰痛が悪化し、1勝も挙げられないまま、現役を引退した。
帰国後は、長年、教師を務め、牧場経営にも携わったが、2019年に故郷ルイジアナで82歳で亡くなった。
マウンドでは闘志を全面に出したが、マウンドを離れると真面目で陽気な性格で、年を追う毎に日本語も堪能になり、誰からも愛される人柄だったという。
乱闘騒ぎとなった王ともプライベートでは親交があり、殴った荒川博ともその後、和解している。
阪神にとって、バッキ―が開幕9連勝した1964年、ムーアが開幕7連勝を挙げた2003年のシーズンは、いずれもリーグ優勝を果たしており、ガンケルの開幕6連勝は、今季、快進撃を続ける阪神にとって縁起のよいデータであることは間違いない。
ただ、バッキ―も、ムーアも、いずれもホークスと戦った日本シリーズでは敗戦を喫して日本一を逃しており、日本シリーズに進んだ暁にはどうなるのか、気が早い話ではあるが、注目である。