DeNA・牧秀悟、令和初・NPB新人初のサイクル安打
横浜DeNAベイスターズの大卒ルーキー、牧秀悟が8月25日、対阪神タイガース戦(京セラドーム)で、NPB新人としては史上初の快挙を達成した。
牧は、2回1死一塁の第1打席では阪神先発、同じルーキーの伊藤将司からライトオーバーの二塁打を放つと、3回、2死一、三塁の第2打席では右中間へ14号3ランホームラン。
4回、2死満塁の第3打席では阪神2番手の斎藤友貴哉からセンター前へ2点タイムリー安打を打って、サイクル安打に王手を懸けた。
6回二死走者なしで迎えた第4打席は阪神3番手の小川一平と対戦し、キャッチャーファウルフライに倒れたが、9回に先頭打者で迎えたの第5打席。
4番手の岩貞祐太が投じた0ボール1ストライクからの2球目を叩くと、打球はライト線へ。ライトの佐藤輝明が一瞬、判断に迷うと、ボールはライト線を転々とし、佐藤が打球を追いかける間に牧は笑みを浮かべながら三塁に到達した。
記録は「三塁打」となり、この瞬間、牧は令和初、そして、NPBの新人では史上初となるサイクル安打を達成したのである。
今年4月1日、横浜スタジアムでのヤクルト戦で牧は、「三塁打」→「二塁打」→「単打」を記録した後、第5打席に三振、第6打席も三振に倒れ、サイクル安打には「本塁打」が足りず快挙を逃していた。
これまでプロ入りして最も早くサイクル安打を達成していたのは、ロッテ・弘田澄男(1973年7月11日、日本ハム戦)、阪急・松永浩美(1982年10月8日、南海戦)の二人で、いずれも実働2年目である。
セ・リーグの新人王争いは例年になくハイレベルである。
野手だけでみても、新人シーズン最多本塁打記録を狙う、阪神の佐藤輝明が95試合出場で打率.268、95安打、23本塁打、59打点(8月25日現在)と一歩リードしていたが、牧も89試合に出場、打率.292、93安打、14本塁打、47打点(8月25日現在)と再び、追撃態勢に入っている。
NPBでのサイクル安打は牧秀悟を含め、過去、70人が75度、達成している。
NPBでのサイクル安打の複数回、達成者は?
NPBで最初のサイクル安打を達成したのは、戦前の一リーグ時代、阪神タイガースの藤村富美男で、1948年10月2日、甲子園での金星スターズ戦で、ライトへの三塁打、センターへの二塁打、サードへの内野安打、センター前安打を放ち、最終打席でライトへのホームランを放って達成した。
藤村は、セ・パ2リーグ分裂後の1950年、5月25日の広島戦で単打、二塁打、三塁打、そして最終打席に本塁打を放った。
これが自身2度目、セ・リーグでは初のサイクル安打となった。
だが、当時の日本のプロ野球では、「サイクル安打」が達成難易度の高い大記録だという認識がなかった。
阪急ブレーブスのダリル・スペンサーが1965年、7月16日の近鉄バファローズ戦(西京極)でサイクル安打を達成した際に、試合後、記者たちに向かって、米国メジャーリーグでは"hit for the cycle"は打者の大記録として取り扱うことを伝えてから、日本でも「サイクルヒット」という和製英語で認識されるようになったのである。
その後、サイクル安打を複数回、達成する打者は長らく現れなかったが、
スイッチヒッターの松永浩美が、プロ2年目、阪急時代の1982年、10月8日の南海戦でサイクル安打を達成し、オリックス時代の1991年、5月24日のロッテ戦で、自身2度目を達成した。
横浜のロバート・ローズは1995年5月2日、本拠地・横浜スタジアムでのヤクルト戦で、サイクル安打を達成した。その2年後の1997年4月29日、同じ横浜スタジアムでの中日戦でまたもサイクル安打を達成し、藤村富美男に次いで、NPB史上2人目となる複数回達成者となった。
その後、1999年6月30日、富山球場での広島戦でローズは自身3度目となるサイクル安打を達成した。
現時点で、NPBでローズ以外に、3度以上のサイクル安打を達成した打者はいない。
2003年6月8日、中日の福留孝介は本拠地・ナゴヤドームでの広島戦で自身初のサイクル安打(二塁打→本塁打→(二塁打)→三塁打→単打)を達成した。
その13年後、2016年7月30日、阪神に移籍していた福留は、本拠地・甲子園で古巣の中日戦でまたサイクル安打(本塁打→単打→三塁打→二塁打)を達成した。
このとき、福留は39歳3か月であり、広島の山本浩二が1983年4月30日の阪神戦(甲子園)で、36歳3か月でサイクル安打を達成した最年長記録を大きく更新した。
なお、今年44歳を迎えた福留は今年7月10日、DeNA戦に「5番・ライト」で先発出場し、第1打席は四球、レフト前ヒット(単打)、ライトオーバーの2ランホームラン(今季2号)、ライト線への二塁打を放って、自身3度目のサイクル安打に王手を懸けたが、第5打席目は廻らなかった。
なお、この日の一発は、本拠地ではナゴヤドーム時代の2007年6月11日のロッテ戦以来、5143日ぶりだった。
サイクル安打でまだ起こっていない組み合わせは?
サイクル安打は、「単打」、「二塁打」、「三塁打」、「本塁打」をどの順番で達成してもかまわないが、確率からいって「三塁打」はもっとも難易度が高い。
2020年のNPBでは、セ・パ併せて250打席に一度しか、三塁打は生まれてない。
1試合平均で両チーム合わせて75打席なので、三塁打が生まれるのは3試合に1度である。
サイクル安打を達成したのは75回のうち、最後に「三塁打」を放って決めたのは、実は22回ある。
だが、これは四種類の「安打」の中でもっとも少ないわけではない。
実はサイクル安打を決める「安打」でもっとも少ないのは「単打」である。
75回のうち、過去13回しかない。
最後に「本塁打」を放ってサイクル安打を達成したのは過去14回ある。
サイクル安打は最後に「二塁打」を打って決めるケースがもっとも多く、75回のうち、48回もある。実に64%を占めている。
サイクル安打をどのような順番で達成するかは24通り、存在する。
実は過去75回のうち、1度も達成されていない組み合わせがある。
最初に「本塁打」を打って、サイクル安打を達成したケースは21回ある。
また、最初に「単打」を打って、サイクル安打を達成したケースは27回ある。
この「本塁打」か「単打」で始まるサイクル安打はすべての組み合わせで過去、該当がある。
だが、最初に「二塁打」から始まる組み合わせは過去16回あるが、
「二塁打」→「三塁打」→「単打」→「本塁打」
という順番の組み合わせの達成は過去、1度もない。
また、最初に「三塁打」から始まったサイクル安打も過去、11回あるが、
①「三塁打」→「本塁打」→「二塁打」→「単打」という順番、
②「三塁打」→「二塁打」→「本塁打」→「単打」という順番
③「三塁打」→「単打」→「二塁打」→「本塁打」という順番
この3パターンも過去1度もないのである。
つまり、サイクル安打の組み合わせ24通りのうち、実現したことがない組み合わせが4通りも存在するのである。
ここからいえるのは、確率的にもっとも難易度の高いはずの「三塁打」を打った後でも、最後に「単打」を残してしまうとサイクル安打の達成が難しいということだ。
「本塁打」→「三塁打」→「二塁打」→「単打」という「カウントダウン」な組み合わせでサイクル安打を達成したケースは2度ある。
2004年の中日・アレックス(4月13日の巨人戦)と2014年の広島・ロサリオ(9月2日の巨人戦)である。
逆に、「単打」→「二塁打」→「三塁打」→「本塁打」という順番の組み合わせでサイクル安打を達成したケースは5度もある。
もっともレアなサイクル安打は?
「レアなサイクル安打」といっても、何をもって「レア」と定義するかで変わるが、まともに考えれば、「長打を打ちそうにない打者が達成する」というのが、「レアなサイクル安打」といえるのではないだろうか。
その点でいくと、過去75度のサイクル安打でもっともレアなのは、大宮龍男ではないだろうか。
大宮は1980年7月29日の南海ホークス戦(大阪スタヂアム)に、「6番・指名打者」で出場して、サイクル安打を達成した。
大宮は享栄高校、駒沢大学を経て、1976年ドラフト4位で日本ハムファイターズに捕手として入団した。当時の日本ハムの正捕手には加藤俊夫がおり、大宮はなかなか捕手での出場機会には恵まれなかった。プロ最初の3年間で166試合の出場で、333打席で本塁打は8本、三塁打もわずか2本、二塁打も9本だった。
プロ4年目のシーズンはこの試合に入るまで打率.176、ホームランは0。この日は「6番・指名打者」で出場したが、7月14日以来、2週間ぶりのスタメンで燃えていたに違いない。
大宮は第1打席こそ、ファーストライナーに倒れたが、その後、南海の投手陣から、ライト前ヒット、ライトオーバーの三塁打、レフトへの二塁打と放って、4打数3安打と猛打賞を記録した。
すると、大量リードの9回に、また大宮に打席が廻った。
今度はレフトオーバーのホームランとなった。
この瞬間、大宮はパ・リーグでは17人目、NPBでも34人目となる「サイクル安打」をマークした。
だが、大宮はこれをきっかけに打撃開眼、というわけにはいかなかった。
結局、このシーズン、大宮が打った本塁打はこの日の1本だけ、三塁打も1本だけだった。
大宮が正捕手の座を掴むのは、翌1981年に、「優勝請負人」のリリーフエース、江夏豊が入団してからである。大沢啓二監督は正捕手に大宮を抜擢し、教育係に江夏を指名した。
その結果、大宮はリードも打撃面も、飛躍的な成長を遂げた。
1981年のシーズン、大宮自身は正捕手として初めて100試合以上に出場し(113試合)、そのほとんど全てで先発マスクを被り、打撃面でも初めて規定打席に達し、打率.249、15本塁打を放って、日本ハムの19年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
同年の日本シリーズでは、日本ハムは読売ジャイアンツに4勝2敗で敗れたものの、大宮は20打数7安打、打率.350と打ちまくった。
また、「通算安打数が少ない打者」によるサイクル安打でいえば、西武ライオンズの岡村隆則だろう。
岡村は入団5年目の1985年、5月22日のロッテ戦(平和台)で、NPB史上39度目のサイクル安打を達成した。
岡村は前日の試合まで、打率.152、ホームラン0と低迷していた。
この日、「7番・センター」でスタメン出場したが、ライト前ヒット、レフトへの二塁打、ライトへの三塁打、ライトフライの後、5打席目にライトオーバーのホームランで決めた。
シーズンで本塁打0の岡村が、最終打席でホームランを打てたのは、西武が大量リードしていたため、気楽に打席に立てたのかもしれない。
だが、結局、このシーズン、その後、ホームランを打ったのは1本だけで、最終戦のダブルヘッダーを迎えた。
1985年10月22日、日本ハムとのダブルヘッダー第1試合(後楽園球場)、「8番・センター」で出場すると、1-1の同点で迎えた6回表、先頭打者で打席が廻った。
すると、岡村は日本ハム先発・河野博文から勝ち越しの3号ソロ本塁打を放った。それを合図に西武打線が爆発し、1死後、再び、岡村に打席が廻ると、今度は、2番手の田中幸雄から満塁本塁打を放った。
NPBでの「1イニング2本塁打」は当時、史上11人目(13度目)の快挙となった。現在は21度、達成されている。
これだけ印象に残る本塁打を放ちながら、岡村の実働8年で通算本塁打数は10本、そして通算安打は149安打である。
イチローは日米通算で4367安打(NPB:1278安打、MLB:3089安打)を放っており、三塁打も日米通算で119本(NPB:23本、MLB:96本)、放っているが、サイクル安打は日米を通じて1度もなく、現役引退している。
「サイクル安打」の達成には、長打力、走力の他に、縁と運も大事なのである。
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