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妊娠報告とマタニティライフの話は、あまり聞きたくないな。
年齢的なものなのか、同年代や少し年下の友人・知人のSNSでの妊娠報告が続いた。
「安定期に入ったのでご報告です」という妊娠報告すら、素直に祝福できない自分。
報告を見た瞬間に心臓がどくんとハネて動揺し、一度そっと画面を閉じて心を落ち着かせ、自分の中の奥深くに埋まる「おめでとう」の気持ちを掘り起こして、ようやく「いいね」を押せるような心境で。
とはいえ、妊娠報告だけなら、まだなんとかなる。
今書いたように、心を落ち着かせて一度「いいね」さえ押せれば、「自分、祝福できてえらいぞ、きっといいことあるよ」と自己肯定感を高められる。
問題は、その妊娠報告の後から数カ月続く、その人のマタニティライフをSNSで見せられることだ。
わたしは一度流産したことがあるので、妊娠が継続することの奇跡も実感しているし、SNSに踊るキラキラしたその人のマタニティライフの裏には、大変な苦労や心配があるだろうことも、想像はできる。
それでも、やっぱり、「見たくない」と思う。
電車で見かける妊婦さんには、優しくしたい。街で妊婦さんが困っていたら、助けになりたい。
でも、SNSに上がってくるマタニティライフや、妊娠したことによる体の変化をつらつらと書いたブログ、子どもへの想いなんかは、見たくない。
それらを見ると、なんだかぎゅうっと、わたしの胸の真ん中らへんを握りつぶされているような感覚になる。
きっと自分は、心のどこかでそれを「うらやましい」と思っているのだろうし、一方で「自分にはできないかもしれないことだ」と思っているんだろう。そんな思いを受け止めきれる度量は、わたしにはない。
だから、そっとミュートにする。
幸せであってほしい、無事に生まれてほしい、新しく生まれる命に優しい世の中になってほしい。
そう願うことと、ミュートをして見るのをやめることは、相反する行為ではないと思う。
幸せであってほしい、でも、わたしも幸せでありたい。
そのために、今は少し距離を置きたい。わたしもできた人間ではないから、そんなに急に自分の心を鍛えるのは難しいの。
◇◇◇
そんなことを感じていて、思ったこと。
もしもわたしが妊娠できたとしたら、妊娠報告って、周囲の人にだけでいいのかもしれない。家族はもちろん、仕事などで関係している人や、会う友人とかだけで。
SNSでは、出産報告だけでいいのかもしれない。安定期に入ってからも。
「早く言ってよ!」と言う人もいるだろうけれど、わたしのように「妊娠の報告は見たくないな」と思う人もいるだろうし、わたしは後者の気持ちを実感しているからこそ、少しでも配慮できたら。
なーんて、妊娠できるかどうかもわからないのに、そんなことを考えても仕方ないか。
でも、こういう道を歩いているからこそわかったことは、わたしにとって、きっと大きな財産になると思うから。