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思いだした!スーツケースとカレー粉(日々ではなく、想い出の一コマ)

1.歴史年表のような昔と感じるけどそんなに昔じゃない頃


私が初めて海外に出かけたのは大学2年生の夏。
というと、シニアの私ですから、なんと!もう半世紀近く(半世紀ではありません!)前のことなんですね。
まだ、当時はロシアがソ連と言われていた頃です。
今上天皇陛下とほぼ同世代の私が幼かった頃、最初の東京オリンピックの頃です。US$1=JP¥360という固定相場制。

その後変動相場制になったのですが、私が大学生のころは、まだUS$1=JP¥240~280をうろうろしていた記憶があります。東ヨーロッパがまだソ連の傘下にあったころです。

私の父は中学の教師だったのですが、日本人学校の教師として海外に出たいという気持ちが強く、家族に黙って外務省の試験を受験したんです。
そういえば、夕食を済ますと早々にベッドに入り、何やら分厚くて文字のちいさい本を毎日読んでいました。

結果、受験した中でトップの成績だったらしく、優先的に赴任国の希望をきいていただけました。
数ある赴任候補地を見ながら若かりし日の父の心は弾んでいたでしょう。
しかし!父は自分の致命的な弱点を忘れていました。

英語がシャッチョコ立ちしてもダメ!

大戦中に英語を封じられた時代ですから、無理もないのですが...
そこで、選択対象は英語を話せても話せなくとも問題のい国。

つまり、日本語も使えないけれど、英語も同様に必要ではない国だけが候補でした。
それは、アフリカ大陸の数か国とポーランドだったのです。

父はポーランドを選び、ワルシャワに赴任になりました。
それも、ポーランドでは初代の日本人学校の校長。
よく、渡航を決心したものと、父の身勝手、無謀、頑固に感心したものです。

2.両親ワルシャワへ


私が父のそんな大それた計画を知ったのは、大学の後期試験が終わりノホホンと初めての一人旅を楽しんでいた旅先から、安全確認電話を母にした時でした。

「大変なことになっちゃった!!」母が叫んでいます。
「早く帰ってきなさい!!あなたと、もう会えなくなるかもしれないのよ!」
一体、何が起きたんだ?!

生まれた街からほとんど出たことの無い母がワルシャワですか?
身体が弱い母が東ヨーローッパですか?
歴史で習ったアウシュビッツのあったところですか?

その頃、成田空港がほぼ完成という頃でしたが、反対派の運動もありまだまだ不穏な空気の中にあったのです。
出発は成田からのつもりで、準備をしていたにもかかわらず、急に羽田からの出発になりました。
海外渡航はまだまだ一大イベントで、両親の世代は二度と日本の地を踏めないといった空気感がどこかに残っていたような気がします。

成田出発も羽田出発もどうってことないよね。
と思えるのは現代のお話で、お見送りの方々への出発日時のお知らせや
両親を送った後のその方への配慮まで、母のすべきことは盛りだくさんでした。

見送りでは空港で万歳...
初めて、両親の世代の方々の揃った万歳に息をのんだくらいです。

両親の出発は空港の都合で当初の予定より2週間近く遅れましたが、両親は無事到着できました。
Wi-Fiもコンピュータも無い時代ですから、連絡手段は電話と手紙だけ。

携帯電話もない時代の地方出身の一人暮らしで家電を自分の部屋に引いた引いた学生はバイトでしっかり稼いでいるひとくらいでした。
私も部屋に電話なんてありませんでした。
母が日本にいれば、公衆電話で話すことができましたが、当時の国際電話は橋渡しのオペレーターにつないでもらわなければなりませんでした。

ハロー

プリーズ コネクト ディス ライン トゥー ナンバー**********

Hold on

水に潜ったときのような感覚のボワーンとした音の中、つながるのを待ちます。

切れた!

同じことを繰り返すこともありました。

春休み中の私は、誰もいない実家の電話から母に電話をしました。
まだ、ホテルに滞在中の母と高額国際電話で話したときは流石に泣けてきました。
母は、元気でした。

3.はじめての海外はポーランド


ソ連の傘下にあったポーランドに留学できるかは情報すら日本では収集できませんでしたので、父からの連絡待ちでしたが、待てど暮らせど連絡はないまま夏休みになり、私も初めての海外に向けて出発しました。
結局、留学はせず何度か長期休みを利用してポーランドを往復しました。

もう今はなくなったアンカレッジ経由です。
航空会社はKorean Air.
成田⇒ソウル⇒アンカレッジで給油⇒パリ⇒ポーランド航空LOT
給油時間やトランジットの待ち時間を含めて多分26~7時間かかった記憶があります。
知らないから靴を脱いでしまった私は、足がパンパン。
ドゴール空港で革靴の踵を踏んで歩きました。

さて、なぜスーツケースとカレーなのかというと...
その時代母曰く「終戦直後の日本くらいしか物がない」
私、終戦直後のことなんて分からない!

いつでもトートバッグを数枚持ち歩き、物があったら購入しなければ次に手に入るのはいつになるかわからないということだったのです。
実際、到着して散歩をしていた時にコショウを見かけたので、帰宅して母にあのお店にコショウがあったと伝えたところ、
「買ってくれた?」
「何本要るかわからなかったし、買ってないけど、もう一度行くよ。」
「...買ってくれてよかったのに。何本位見えた?」
「5本くらいかな。」
「じゃあ、全部買ってきて。」
私が見てから、15分と経っていませんでしたが、そのお店に着いた時は既に1本しか残っていませんでしたし、夏休みが終わって日本に戻るまで入荷はありませんでした。

4. エピソード


当時はそれほど厳しい状況でしたので、到着早々にとんでもないことがありました。私のスーツケースだけがでてこなかったので、トイレに行っている間に「ヤラレタ?」と思い、スタッフにたら尋ねました。
暫くして、たしかに私のスーツケースだけが、回ってきました。
迷わず受け取って荷物チェックに。
検査が厳しはずと聞いていたのですが、開けろとも言われずトランジットの手続きに。

ワルシャワに着いたら、西からの荷物はかなり念入りにチェックされると聞いていたのですが、担当者の満面の笑顔と共にスーツケースを開けることなく出ることができました。

そのスーツケースには、母に頼まれていたカレールーがほぼスーツケース一杯に入っていました。
別送は受け取れるまでにかなりの時間がかかるということでしたが、私の日用品などは早めに別送していました。
なぜ、カレールーをスーツケースにしたか?
噂か事実だったのかは定かではありませんが、別送品からは検閲の際に結構な頻度で物が抜かれるという情報があり、母が一番欲しがっていたカレールーをスーツケースに入れたのです。

それから、”意味わかんない”と言われそうなことですが、カラー印刷の技術と紙の質が当時の日本とは雲泥のさでしたので、カラー写真のカレンダーがある種の袖の下的に使用できるという情報もありました。カレンダーとしての役目が終わっても写真を立派に飾れるらしいのです。

母が楽しみにしていたのですが、嫌な予感。鍵で開きません。
しかも軽い。カレールーが入っている重さじゃないのです。

いずれにせよ、中は見なければと鍵を壊したところ、中から出てきたのは一枚の楽譜とカーディガン。
これは、フランスでスーツケースが入れ替わったとしか考えられません。

ワルシャワ到着早々手続きに奔走して、自分のスーツケースを受け取ったのが1週間後。
でも、軽い。
鍵が壊れ、乱雑に縛られていいる。

今度は楽譜一枚入っていませんでした。
スッカラカン。

しょうがない。

そんな、ことを急に思い出したのですが、80年代後半から自由化が進みました。
未だに、友達でいてくれるワルシャワの友人は私より8歳年上です。
日本に遊びに来て!と誘ったら一度はその気になってくれたのです。
それは、飛行機がロシア上空を飛べるようになった頃。
でも、また、今、ロシア上空は飛べません。
長くなった飛行時間は、彼女の日本に行ってみようかしらという気持ちを消してしまいました。

ビデオ会議であうことができます。
でも、やっぱり、もう一度会いたいですね。
彼女曰く「あなたは若い」
それなら、何とか私から会いにいけるようにしたいものです。
時間が遠くなりました。
距離は、本当は近くなったのに、また遠くなってしまったワルシャワです。


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