073.80年代航空事情
私が初めて外国に行ったのは、昭和55年(1980年)6月のことでした。私は子どもの頃からフランスに憧れていて、成人式の振袖の代わりにフランス旅行に行きたいと母に話したところ、あっさりと「じゃ、そうしましょう」ということになりました。フランスかぶれになったきっかけや、成人式の振袖のことはこれまでにも書きました。
日本を飛び立ったのは、まだ開港して2年ほどしか経っていない成田空港からでした。成田空港は私が物心ついた頃には、既に政治的にも社会的にも世間を揺るがす大問題となっていました。経済発展の中で新空港の開港を急ぐ日本政府と、先祖伝来の土地を守りたい農家の人々と、彼らを支援する反対運動家たちに過激派まで加わって、複雑に入り乱れての大混乱でした。
まもなく大学に入学するという昭和53年(1978年)3月26日、私は友人の家に3人の友人と一緒に泊まりに行きました。いつものようにおしゃべりをして、4人で夕食を作って食べながらテレビのスイッチを入れたら、成田空港の管制塔の映像が映し出されていました。管制塔に過激派が侵入し、鉄パイプで辺り一面の機器を破壊し、書類が散乱していました。
1978年3月30日に予定されていた開港まであと4日というタイミングでの管制塔占拠事件でした。私たち4人はしばらく言葉もなくテレビ画面を見つめていました。一緒に泊まりに行った子の1人は成田空港のできる千葉県出身でしたが、彼女が「ああ、私たちの税金が鉄パイプで打ち壊されていく」と表現をしたのが印象的で今も記憶に残っています。とはいえ私たちは高校を卒業したばかりで、まだ1円の税金も払っていませんでした。
成田空港問題については、運輸省(現在は国土交通省)が「昭和53年度運輸白書」の第2部第4章第1節で「開港に至るまでの経緯」として説明し、また「成田空港と地域をめぐる歴史的経緯とともに当時そこに関わった様々な立場の人々の苦悩と想いを正確に後世に伝えるため、2011年6月23日に開館しました」という「空と大地の歴史館」には、「空港問題とは」との解説文があります。
結局、成田空港は大混乱の果てに、1978年5月20日に開港しました。これまでの経緯のみならず、都心部から遠い、国内線とのアクセスが悪い、滑走路が足りない、24時間使えないなど様々な問題を孕んだ開港でした。
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開港から2年後の1980年、私が成人式の振袖の代わりに初めて欧州に行った時に乗ったのは、ブリティッシュエアウェイズという英国の航空機でした。たまたま申し込んだツアーが採用していた航空会社でした。当時、欧州行きの飛行機の多くは「北回り」といって、日本からまずアラスカのアンカレッジへ向かい、そこで給油してから欧州に向かっていました。
ところが、私の乗ったブリティッシュエアウェイズはソ連の上空を飛んで、モスクワで給油するという当時としては少し珍しいフライトでした。給油の際、せっかくだからモスクワ空港を見学しようと飛行機から降りたら、空港職員の中には機関銃を肩から下げている人もいて、男女とも笑ったら負けとでもいうように全員が能面のような表情をしていました。
私は「これが社会主義なのか」などと思いつつ、翡翠のアクセサリーとキャビアの缶詰が並んだお土産物屋さんをひと回りしたあと、空港内のトイレに入ったら、トイレットペーパーがパリンパリンで、お尻に引っ掻き傷がつきそうでこれまたびっくりしました。話のタネにひとつお土産に持って帰りたいような代物でした。私にとって機関銃とトイレットペーパーは大きな衝撃でした。
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昭和60年(1985年)8月、私は1年間フランスに住むことを目的に、今度は1年オープンの往復航空券を購入することになりました。今度はツアー会社によって偶然選ばれた航空会社というわけではなく、自分の意志で購入する航空券でした。
あの頃ツアーではなく、欧州往復の1年オープンの航空券は、日本航空やエールフランスなどの航空会社の正規料金は100万円位、格安航空券でおよそ50万円位でした。もちろんこれはエコノミークラスの料金です。それにあの頃の全日空はまだ、いわゆる「45・47体制」の取り決めにより国内線専門とされていて、国際線を飛ばすことができませんでした。
他にも、南回りでアジア諸国や中東諸国で何度か乗り継ぎをすれば、もう少し安いチケットもあるにはあるということでしたが治安の問題がありました。季節によっても多少の違いはありましたが、欧州との往復航空チケットは、正規100万、格安50万というのが大体の相場でした。
ところが、当時、2社だけ安く行ける航空会社がありました。それはソ連のアエロフロートと、韓国の大韓航空でした。この2社はどちらも27、8万円で欧州との往復ができました。私の選択肢は当然の如くこの2社に絞られました。
私は1980年のモスクワ空港の思い出があるので、できればアエロフロートではない方がいいと思い、大韓航空にすることにしました。しかし大韓航空に関しては、2年前の1983年9月1日にソ連の領空を侵犯したという理由でソ連の戦闘機によって撃墜され、乗員・乗客269人全員死亡という大事件の記憶がまだ生々しく残っていました。家族を失い嘆き悲しむ人々の姿は繰り返し報道されました。
この事件は、この4年後の「金賢姫」で有名になった1987年11月29日に起きた大韓航空機爆破事件とは別の事件です。こちらの事件では乗員・乗客115人が全員死亡と認定されました。大韓航空には、さらに5年前の1978年4月20日にもソ連の領空を侵犯し、ソ連の攻撃を受け不時着して乗客のうち15人が死傷したという事件もありました。
周囲の人たちからは、大韓航空は追撃されるからやめた方がいいとの忠告を数多く受けました。追撃する側のソ連の飛行機か、追撃される側の大韓航空との二者択一というのもなかなかすごい選択肢でしたが、私は根っから楽天的なのか、いずれもきっと事故は起きないから大丈夫と大韓航空を選びました。
それでも高くても日本航空にした方が良いのではないかというアドバイスを数多くいただきました。しかしながらあの頃、航空機の事故は決して稀ではなく、みんなが勧めてくれる日本航空も、3年前の1982年2月9日には「逆噴射」「機長、やめてください!」で知られた「日航羽田沖墜落事故」を起こしていました。この墜落で乗客24名が死亡、乗員乗客95名が重症、54名が軽症を負いました。
飛行機事故は起こる時には起こるものだと割り切るしかないと、私自身は思っていました。当時の私にとって50万円と28万円という金額の差はあまりに大きく、再考の余地はありませんでした。
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昭和60年(1985年)7月いっぱいで会社を退職し、8月28日に迫った1年間のフランス滞在への出発を前に、昼間は準備にいそしみ、夜は久しぶりに毎日自宅で食事をとるという生活になりました。
そんな1985年8月12日、月曜の晩のことでした。その日は夜7時のニュースのあと、7時半から柳田邦男原作の日米開戦の秘話をテーマにしたドラマ「マリコ」の再放送があるというので私は楽しみにしていました。このドラマを本放送の時に見た私はいたく感動し、原作を買って読んでいたほどだったので、今回のドラマの再放送はことのほか楽しみにしていました。見逃さないように、7時前にはスタンバイしてテレビの前に座っていました。
7時になってニュースが始まってまもなく、夕方6時発の羽田発大阪伊丹空港行き日本航空123便がレーダーから姿を消したというニュースが飛び込んできました。私の記憶ではトップニュースではなく、番組の途中に飛び込んできたニュースでした。その時はまだほとんど情報が入っていなくて、とにかくレーダーから消えてしまったといっているうちに7時半になりニュース番組は終了しました。
日航機の行方を心配しつつも、楽しみにしていたドラマ「マリコ」が始まりました。しかしドラマが始まってまもなく「突然ですが」とドラマは打ち切りになって、画面がニュースセンターに切り替わり、日航機の続報が伝えられ始めました。レーダーから姿を消したあと、行方がわからないというのが最大の問題でした。
しばらくすると、航空評論家として柳田邦男が画面に登場しました。ドラマ「マリコ」の原作者の柳田邦男は、『マッハの恐怖』という著書で大宅壮一ノンフィクション賞も受賞している航空機事故の専門家でもありました。こんなこともあるのかと私は驚きをもって画面を見つめていました。
追記: (2021/5/23)
改めて新聞の縮刷版で1985年8月12日のテレビ欄を確認してみたら「ドラマ « マリコ »アンコール」は、ニュースセンター9時のあと、午後9時40分からの放送でした。午後7時30分からは「NHK特集 人間のこえ・日米独ソ・兵士たちの遺稿」でした。きっと7時のニュースからテレビを見続けて、途中記憶が抜け落ちたものと思われます。
多くの人の記憶に未だに焼き付いている日航機事故は、その後、夜を徹して捜索活動が行われましたが、乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人という世界の航空機事故の中でも最大規模の大惨事となってしまいました。
8月12日の晩から、新聞テレビ雑誌あらゆるメディアの報道は、この日航ジャンボ機墜落事故一色となりました。多くの人々が心配し、ひとりでも多くの生存者が救出されることを祈り続けた日々となりました。私の脳裏にも今尚、生存者がヘリコプターで救助される映像が焼きついています。生存者のお名前も忘れることができません。
しかし生存者はたった4名しかいなく、御巣鷹山の凄惨な事故現場からは、飛行機に異常が起き、ダッチロール飛行と呼ばれる左右に揺れながらの不安定な飛行の中、手持ちの手帳に揺れる文字で、家族へ向けて感謝の言葉を綴った遺書などが見つかり、多くの人々の涙を誘いました。
私の出発日はこの事故からほぼ半月でしたから、母はもう毎日心配で心配で夜も眠れないという状態でした。アエロフロートや大韓航空ではなく、日本航空が墜落したのですから、安全なフライトなどないことが改めて示されたような感じでした。当時、飛行機事故は連続して起こることが多く、友人や知人も心配して本当に行くのか、やめておいた方がよくないかと連絡をくれたりしました。飛行機が落ちないようにと御守りをくださった方もいました。
私自身はまったく何も心配していなくて、きっと充実した1年間になるだろうと期待に胸を膨らませていました。けれども出発当日の朝、母は心配のあまり体が震えてしまって、拭いても拭いても涙が止まらず「今生(こんじょう)の別れ」という様相で、親不孝の極みという旅立ちでした。
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フランスに着いて少し経ったある日、アパートの近くのコインランドリーで洗濯物が出来上がるのを待っていると、そこにひとりの日本人男性が同じように洗濯物片手にやってきました。たまたま他に誰もいない上、日本人同士ということもあり、洗濯物を待つ間どちらからともなく雑談を始めたのですが、おそらく私が日航機事故は驚きましたねなどと言ったのでしょう、彼は、実は自分は日本航空の社員だと言いました。企業派遣の留学生でした。
コインランドリーの待ち時間という状況もあって、打ちとけて話をしていたら、その時彼は次のように言いました。「お客さんにとっても飛行機事故は怖いだろうけれど毎日乗るわけではありません。しかし航空会社に勤務している人間にとっては、空の上が日々の職場なのです。それはもう空の安全には万全を尽くしてもらわないと本当に困るのです」 その言葉は事故からまもない頃でもあり、心の底から絞り出すような響きがありました。連日の報道で航空会社の責任追求ばかりが問題になっていましたが、社員の恐怖は相当なものだったのだと私はその時初めて気づかされました。
1年間の滞在を終えて、翌年、フランスから帰国した秋に親戚の結婚式があって、九州の叔母も参列することになったのですが、叔母は「飛行機などという恐ろしいものには、よう乗らん」といって、九州から何十時間もかけて寝台特急と新幹線を乗り継いで東京まで来たことがありました。あの頃、叔母は今の私より若い50代でしたが、当時飛行機が怖いという人は珍しくはありませんでした。帰りもまた何十時間もかけて列車で九州へ戻っていきました。
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成田ーパリとの直行便が始まったのは、私がフランスに着いて半年余り経った頃の1986年4月5日のことでした。日本航空のサイトによれば「世界初のシベリア上空通過ルートによる欧州直行便就航」とあります。2日後の4月7日にはロンドン線にも直行便が導入されました。エールフランスも同じ月に、ボーイングB747で初のパリ~東京ノンストップ便「ソレイユ・ルバン」の運航が始まりました。
当時フランスにいた私は、企業派遣の留学生から、本社の人が直行便に乗ってきたという話を耳にしました。直行便はもちろん格安航空券では乗れないので、100万円くらいかかるのだという話でした。又聞きの感想によれば、12時間連続飛行は体に堪えるので、出張なら仕方ないけど、個人で行くならやっぱり途中で休憩できるアンカレッジ給油のフライトの方がいいよという、なんだかイソップの「すっぱい葡萄」みたいなオチがついていました。
ところで、私にとって「80年代の航空事情」といって真っ先に浮かんでくるのは、なんといっても欧州へ向かう北回り便が給油するアンカレッジ空港です。いつ行ってもSALEと大書された毛皮のコートがグルグル回る衣装掛けにずらりと並んでいて、その近くのうどん屋さんの店頭に吊り下がっていた「うどん」とかかれた提灯が未だに目に浮かんでくるのです。