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雑感:理(ことわり)を見極めたい
会社を退職して、のほほんとしていたらもう2週間近く経った。元来、細かい手続き、「やらねばならない」を確実に実施するのが苦手な自分らしく、各種の手続きに苦労している。
他人にこういう話をすると、「え!そんなの常識でしょう?なんでできてないの?」と言われることも多く、若いころは自分の無能を責めたものだ。だが、43歳のおっさんになって、「えへへ、俺ってポンコツオヤジだから」と悪びれる様子も無くなってしまった。良いことやら、悪いことやら。
結局は、理(ことわり)に即しているか、反しているか、そこの見方が如何なるものか、ということだ。どういうことか、論理展開してみよう。
歳月を経た宗教は、元祖を見るべし。
私は、時を超えて伝承されている宗教というものは、多かれ少なかれ、時代に依らず人(ヒト科の動物であり、社会的生命体)の「好ましい在り方」を追求して導こうとする活動の体系が始まりだと思っている。
もっとも、始祖から時代が経つにつれて、宗教も形骸化したり腐敗すらしてしまう(実に人間らしい)。当事者の方には失礼だが、現代における仏教界も、かなり「葬儀イベントの演出屋・演者」の要素が強くなっているかもしれない。
歴史を紐解けば、西洋では「免罪符」などという脅迫の仕組みを構築し、金を民から巻き上げた時代もあった。日本でも、寺社領として荘園を囲い、そこで重い年貢を課し関所で通行料を取って蓄財し、軍隊(僧兵)を組織して財産保全・取り立てをやっていた時代もあった。
すなわち、和洋問わず、また宗教だけに関わらず、世代を超えて長く存続した特権的な組織・団体というのは、徐々に既得権益化して元来の輝きが色褪せ、マフィアのような極悪な存在になる傾向があるように思う。ノーブレス・オブリージュ忘れし権力承継者というのは、当然のように民を苦しめ収奪して悪びれない存在になってしまう、そんな危険があるんだろう。
だから、やはり創始者(ゼロから新たに何かを立ち上げた開祖)は偉大であり、創始者の理念・願い・考えや行動を掘り下げることが大事なんだと思う。仏教界でいえば、日本で新たな枠組みを作った始祖たち(空海、日蓮、親鸞など)に当たると思うし、おおもとの原始仏教の始祖たるブッダ(仏陀)であろう。
ブッダが大切にした「理」
私は仏僧でも無いし、特段の修行をこなした認定もされていない一介の凡人なので、ここで書くことはそんな私の一つの解釈・見方に過ぎぬと思って読んでいただければと思う。
さて、原始仏教の始祖たるブッダは、私の解釈では、何より「理(ことわり)」を大切にされた方だったと思う。ブッダの教えを私流に極めてシンプルに言えば、下記なんじゃないか、と思うのだ。
理(ことわり)を知れ。逆に言えば、「無理」を見極めろ。
「無理」は、頑張ってもどうにもならんから、潔く諦めろ(明らめろ)。
頑張ってどうにかなることに、精いっぱい頑張れ。
例えば、リンゴを持っていて、空中でリンゴから手を離したら落ちる。これは、理だ。これを「万有引力の法則」と名付けた人がいたが、時代をどれだけ経ても、別の原理で引力を打ち消さない限り、何度やっても確実にリンゴは落ちる。これぞ、理。
しかし、「私は運の無い不幸な人間だ、良いことなんか一つも起こらない」に理はない。
例えば、飲み水は毎日徒歩で2時間かけて汲みにいっている人が居て、その人が自称不幸な人を見て何と言うだろうか。きっと、「貴方は幸せだ、蛇口を捻ればいつでも飲める水が手に入る。私が水汲みに行く間に、本を読んだり遊んだり好きなことをしている。なんと幸せな人だ」と。
つまり、自分自身の無知(実は当然ではないことを当然だと思って、感謝を忘れて生きている)とか、物の見方の歪み(自分は不幸というレッテルを貼って、幸せを感じられる機会を見過ごしている)が、同じ人の有り様でも幸にも不幸にもなり得る。いつでもどこでも誰でも、の再現性がない。
理無きものを理と間違えて、可能性を潰して不幸ループに落ち込んでしまったり、理だから頑張っても何にもならないことに無駄にエネルギーを使ってしまう。これを避けるべし、というのが、ブッダの説きたかったことだったんだろうと思う。
理を見出すのには、会得・体得(経験値)も必要
じゃあ、理を見極めて無理を諦めれば良いんでしょう、と簡単そうに思えるのだが、そう簡単でないのが人生の難しいところだ。いや、さらにはっきり言うと、完全に理を見切った人は、そうそう過去にも今にも居ないんじゃないだろうか。
何かしようとして、思ったようにできなかったとき。
「私の頑張りが足りないんだ!」
「私の力不足だし頑張ってもそんな力は付かないから、不可能だ」
「世の中が悪い」
「足りてない要素があっただけ、それを足せればできる」
「タイミングが悪かった、機を得たらイケる」
そういったものを、常に正しく見極められるだろうか。私は自信無い。
でも、若い時よりは、だいぶ上手くなった気がする。若い頃は自意識過剰だったので、「自分ガー、自分ガー」だった。自分の努力不足、自分の能力不足、自分の不適格、といったものに全てを結びつけていた。だから、自分を過剰に責めたり、不必要に落ち込んだりイライラしたり、無駄に無気力になったりしていた。時には、こんな社会がおかしいから皆んなぶっ壊れてしまえ、などとアナーキー志向?になったりもした。
生きている年数が増えて、体験が増えたことで、昔よりは冷静に理に沿った見方ができるようになった気はする。しかし、それでも未だに、本来無理では無いものを無理と思ったり、無理なものを頑張ろうとして変わってない部分も大いにある気がする。
無理を、頭でなく身体で感じ取らせたブッダ
理を一つ理解するのに、情報を取り入れて頭で理解しようと思っても、難しいことが多い。実際に目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、やっと「そうなのか」と腑に落ちることもある。
その「体感する」ということに、ブッダが絶妙な形で導いたエピソードがある。キサーゴータミーという、幼子を亡くした貧しい母親の話だ。
キサーゴータミ―は、貧しい境遇ながら幸せを得ようと希望を持っていたに違いない。それが、妊娠中に夫に先立たれた後、出産した幼子まで亡くした。
彼女は家族を失って一人になって悲しみに暮れ、「なぜ私だけこんな目に遭うのか」と世を恨んだかもしれない。幼子の死を受け入れることができず、その亡骸を抱えて村中を訪ね歩き、「この子が生き返る薬をください」と懇願して回った。そうした中、ブッダと出会った。
彼女はブッダにも、子どもが生き返る薬をくれるよう依頼した。ブッダは、「んなもの無理じゃ!」とは答えなかった。「分かった、生き返る薬はケシの実が必要だから持ってきなさい。ただし、そのケシの実は、これまで人が亡くなったことの無い家のものでないといけない」と答えたのだった。
母親は恐らく、一条の望みを感じたであろう。今度は、今まで人が亡くなったことのない家を探して、村中を訪ね歩いた。ところが、訪ねる家という家で、親・兄弟・配偶者・子ども・・と、ことごとく誰か亡くなっていた。そうやって訪ねていくと、どの家でも亡くなった親族がいることが分かってきた。ある日、彼女は悟った。「死は、誰にでも訪れる。家族を失う痛みは、自分だけが感じているのではなく、皆んな感じていたんだ」と。
真の「理解」というのは、こういうものなんだろう、と私は思う。「理(ことわり)を解く」と書いて理解となる。キサーゴータミーが今まで気づいていなかった道理を分かるためには、「人は誰でもいずれ死ぬ」という一文を読むことではなくて、数多くの家を訪ねて実際に家族を失った人たちと沢山会うことで腹落ちした。僕らが何かを理解するときも、さらっと誰かの書いた文章を読むだけでは足りないことが多いものだと思う。
読書は価値あるけど、ただ読んでもダメ
立命館アジア太平洋大学学長の出口治明さんは、今後の社会で幸せに生きるためには、本を読む・旅をする・他者と対話する の3つを勧められている。私はなるほど、と思う。そのうえで、「本を読む」は、やり方が上手くないと意味がないようにも思っている。
私はもともと、本を読むのが好きだが、大学時代の引きこもり・自殺未遂の前後の時期は、迷いの海から抜け出ようとして文字通り「死に物狂い」で、書籍を読み漁った。その頃の私は、今生きている人が書いている本より、既にこの世を去った先人が書いたものを選んで読んでいた。当時は「自分ガー、自分ガー」で他者と比較しては自信喪失・自己卑下する悪循環の中にいたので、現在進行形で輝いている人の言葉を、比較せずに素直に受け取ることができなかったのだ。
「自分がこの世で生きていてはダメなのではないか」と考えていた当時の私は、「自分も生きていて良い」のお墨付きや、「こうすれば生きていける」の知恵を求めて、今はもう亡き「昔の人」の本をむさぼり読んだ。昔の人の書いたものだから、言葉遣いが現代と違ったり、時代背景・常識も変わっていて意味不明な所も出てくる。そこで私は、書かれた当時の時代背景・常識を知ろうとして、政治・経済だけでなく文化・風習・民俗を含めて歴史を紐解き、旧い言葉遣いを調べ、「昔の人」が何を感じながら何をしたのかを追体験をしようとした。
当時はWindows95が発売されたかどうか、という時期だったので、PCで検索なんて出来ずに調べるのも一苦労だった。しかし、時間と労力を掛けて頑張っていると、だんだんと「昔の人」の置かれた立場・状況が見えたし、彼らがどんな想いを伝えたかったのか分かった気になってきた。時代を超えた多くの先人の人生を、ケーススタディで追体験することになった。
私は、読書も歴史研究も、それが先人を追体験することに結び付いていないと価値が低いように思っている。いわば、書いた人を自分に憑依させるようなものだろうか。例えれば、織田信長が若かりし頃に立っていた立場・状況を類推して、当時の織田信長が感じただろう感覚や抱いたであろう想いを想像する。そして、もし自分が当時の織田信長だったら、どう感じてどうするだろうか、と考える。そうやって追体験・ケーススタディにして初めて、価値があるように思う。
身口意の三密
真言宗の始祖である空海上人は、身口意の「三密」を説いた。この「密」というのはざっくり「真実」と捉えることにしよう。そして、身密・口密・意密は、私は以下だと捉えている。
身密 ・・・ 行動、身体
口密 ・・・ 発言、言葉
意密 ・・・ イメージ、心持ち
読書は、書かれた言葉を読む行為であるが、しかしただ文字を読み上げても意味がなく、書かれた言葉から情景・状況・気持ちや想いをイメージにできないと意味がないと思う。つまり、口密+意密の読書じゃないと意義が少ないんだと思う。
物事を、深く正しく理解する場合、口密+意密を極めても上手くいかないことが多い。その場合、身密が必要になってくる。旅に出ることは、典型的な身密への道だと思う。口密+意密だけで「分かった気になる」だけで、身密もできないと「本当には分からない」ということもあるんじゃないか。
だから、私は原チャでうろつく。実際にどんな所かプラッと見に行くし、アイデアが浮かんだら少しでもやってみて、そこからの展開していく変化を見ることもある。身体で感じることが、読んで考えることでは足りないものを足してくれるように思う。
取り留めなくなってきたが、「私は細かい事務仕事が苦手で、いまさら上達するのに価値はない」というのが、理なのか理が無いのか、見極めたいと思った。