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素粒子?フォトン?と格闘中

気づけば、2023年暮れに休職からの退職、そして転職を経て、新たな場で半年近く経過した。

久々になるnote投稿をすることにかこつけて、振り返りしてみたい。


苦難からの学びが活きてるところ

昨年暮れの苦難の時、未来への希望を見失いかけ、己の無価値感と自分の人生の無駄感に喘いていた。朝起き出すのも嫌だ、という時もあったし、恥ずべき出来損ないな自分をこれ以上、世界に晒したくないといった気持ちも強かった。

2ヶ月の休職期間の最後の方は、なんとか次に向けた活動を行えるだけの気力は取り戻した。そしてその時の直近に対する反省として、私が関わる場の全てが、私のものではないし、だからこそ「すぐに何でも思い通りにならない」との諦めを身につけた。

諦めたといっても、「どうせ何もかも自分の思いなど通じない」などとニヒリズムになったわけではない。関わる場への当事者意識とコミットメントの強さは自分の長所と評価はしつつも、「焦りなさんな、機が熟すまで忍耐せよ」と言い聞かせたような形だ。

おそらく、その学びからの姿勢変更は、今の所、それ以前よりうまく機能して新生活を良き状態に保つに寄与してくれている気がする。

己の渇望への自覚を深め、未来への願望を取り戻しつつある

2024年の年明けから、新天地でゆるゆる活動を始めて半年弱、その経験の中で、改めて己の渇望に対する自覚は深まって、未来への願望も鮮明に取り戻しつつある。

思えば2023年は、あれも欲しい、これも欲しいと、ある種身勝手に高望みを募らせた結果、挫折した年になった。絶望しかけて、それまでの自分を特徴づけるような、個性的で強烈な欲望を放棄しかけた形になった。

2024年の前半では、いったん自分の元来の欲望を忘れて、ある種の隠遁者のように粛々と新生活を送った過程で、却って、自分元来の欲望を感じなおして、改めて希求対象に掲げなおしたような形になった。

2023年までとの違いがあるとすれば、「今の自分が思うようなプロセスで、容易に叶うものではないかもしれない」という諦観というか覚悟というか、それが少し付帯したかな、と思うところだ。

テイラー博士、ディスペンザ博士、そして素粒子のフォトン?

そうこうして過ごしている間も、書籍やYouTubeやAudibleで、自分の在り方をより良くするヒントになりそうな情報を自分に注いでいる。

元から、チーム組成・リーダーシップ・仏教・脳科学など興味を持って色々と情報を入れていたが、今年に入ると、ジル・ボルト・テイラー博士の書籍に感銘を受けた。

左脳が機能を止めた時の感じ方・見え方と、左脳が復活してきた後の処し方の変化は、多くの方の自己コントロールにプラスになるだろう、と思う。

そして、ジョー・ディスペンザ博士の分厚い本も、悪戦苦闘しながら読み進めている。この辺から、私自身は良くわかってない、量子力学的な説明・理屈づけに接するようになった。

今の私には、正直、量子力学がなんたるか良くわかってないのだが、直観的には、ディスペンザ博士を始めとする量子理学的な説明による意識・行動変容については、学ぶ価値があると感じている。

元々、仏教の唯識論とか中村天風師系統を読み齧っていたこともあり、なんだか、それらの論と整合するような感覚があったからかもしれない。

集合意識、神意識、霊性心、ワンネス、仏心、阿弥陀心、色々?

そうこうしてると、最近、強く思う。孤立的・分断的な功利主義よりも、融和的・連帯的な功利主義の方が遥かに、エネルギーは大きくなるだろうと。

人は、自分の命が惜しいと思えば、死を恐れ安全地帯に逃げ込もうとする一方で、愛するものを守りたいと思えば、自らの命も顧みぬ勇敢な行動も取ろうとするもので。

そんなしょっちゅう、命を賭ける必要はないかもしれないが、少なくとも高いエネルギーで活動するには、多分、自分という単位に切って専らそこの発展を期そうとしてもできないんじゃないか。おそらく、「甲斐」というのは、自分という単位を超えた融和・連帯の中の発展を期した時にこそ、爆発的エネルギーが湧いてくるんではないか。

そんなことを考えて過ごしている。

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