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消極的利己主義が導くギャング社会化試論

今日書いてるものは、途中状態だ。だから試論だ。

今やオーソリティがキンタマ抜かれてナヨナヨしていて、それが故に取り繕うばかりで手を打てない・打たない。この観念が、私が社会人になってからずっと抱いてきた日本の社会に対する世界観だった。

最初は疑問という形で、それから25年の社会人生活において仮説検証を踏まえて確信に変わってきた。ダメだ、これはオーソリティに期待しても好転しない、なぜなら彼らは自己効力感(簡単に言えば自分の力に対する自信)をほとんど持っていないし、その惨めさを隠蔽するがごとく言い訳作りに熱を上げるばかりだからだ。

その辺を今回、深めてみたい。

オーソリティの劣化ループ

絶望的なのは、表立って日本社会のトップ層・意思決定層にあるはずの人たちに、絶望的な劣化ループが定着していることだ。すなわち、「自己効力感の低さ」と、「まともな行動をせず下らないことばかりやってる行動様式」が、相互強化する負のループとしてぐるぐる回り続けていることなのだ。

まず自己効力感の低さが、問題意識・感性・学習意欲の低下を招く。簡単に言えば、周りの世界を「自分が何かいい形で影響力を及ぼせる」という目線で関心持って見て、共感し、トライアル&エラーに乗り出すという姿勢を持てないのだ。そんな彼らが抱いている態度は、「仕方がない」「私にできることは無い」「自分たちで何とかしてもらうしかない」である。この辺は、下記の書物にインスパイヤされて気づきが強化された。

さて、自己効力感の無さが、周囲を取り巻く問題に対して解決チャレンジする意欲とアクションを削がれ、「問題の猛威になすがままにされる」経験を繰り返す。そのことで、ただでさえ低い自己効力感がますます減退する。こうやって、問題に対して何も手を出さず、苦しむ人を見て見ぬふりをし、何もせず見殺しにしている自分の正当性を言い訳ばかりする、という人間が増産される。

今や政治・官僚の世界においては、何かに挑んで解決努力するよりも、何もせずに聞こえのいい言い訳を作り出して上司を言い訳の船に乗せてあげられる人間が重宝され昇進していく有様だ。こうして、有効な手を打つよりも日和見にその時々に聞こえのいい口上を説く、見栄えだけ良い口先だけの人間が重要ポジションを占有していく。

出自や生育境遇による格差や、地域・職業などによる格差を、「日本」という想像の共同体を維持強化するために再分配し利害調整して一体感を維持創出するはずの、政治家・官僚。これらのオーソリティ自身が、もはや「日本」という想像の共同体を信じていないし、そこに供するつもりもない時代になっている。「日本」は、自分たちのスキャンダルを狙い、揚げ足をとり、モンスター国民・モンスターマスコミとして言いたい放題の要求ばかりしてくる敵なのだ。モンスターな「日本」国民から、政治家や官僚は自分たちを守ることに熱心なのだ。

こうして消極的利己主義、そこから導かれる「自己責任論」「自助論」が言論・政治・行政から蔓延しきった今や、社会は次のステージに突入している。自己責任論・自助論全開で生きていけて余りある”旦那”が、自己責任論・自助論では生きていけない「弱い人間=庶民」を庇護する世界だ。

日本は室町時代になる

自己責任・自助の時代、強い人間が弱い人間を庇護する、マフィアやギャングのような「ファミリー」が群雄割拠し、国家という庇護・共助能力を手放し実効力を失った想像の共同体は形骸化する(すでにしている)だろう。

言い方を変えると、これは言わば「『反社』が支配する世界」の再生だ。反社を排除して完全ホワイト社会を実現したかのように見えた過去10数年、実は裏で、従来とは別の新興『反社』を育てる格好の土壌ができたとも言えよう。

森を伐採して平地にしてゼロリセットしたことで、今まで陽の光を浴びられず育つことができなかった次世代のタネが、続々と芽吹いて枝を伸ばしていくように。古い反社が、「益少なくして害多し」な存在になって排除された一方で、今や「益多くして害少なし」な新興『反社』が待望される状況になっている。なってしまっている、とも言えるかもしれない。

これは、言わば室町時代化する、ということかもしれない。室町幕府は、全国あまねく一律な秩序を実効させることはできなかった。当時のテクノロジーでは、そんなに広域で情報を一元的に得たり与えたりできないし、そんなに広域で一元的に動く組織を作って動かすこともできなかったのだ。だから、表のルール・機構はありながらも、実際には、「上納金を出す」「反抗せずに自分のシマで満足する」「一大事の時は協力する」を条件に、各地の諸侯が各自のシマを実行支配していた。

各地の諸侯(大名)も、自分の領地全体を実効支配できないので、さらに細かい単位の地域地域の豪族や寺社にシマを与えていた。よって、通行人は彼らのシマに入る時は入場料・通行料を払う必要があったし、彼らのシマの中では彼らのルールに沿って行動せねばならなかった。

今回は、テクノロジーの問題ではない。全国一律を実効支配しているはずの国家ー自治体の担い手たちが、やる気も「やれる」気も無くなって放置・放棄しているからそうなる、というだけなのだ。

『反社』は、室町の豪族や”旦那”と見た方が良かろう

ちなみに『反社』とカッコ付きで書いたのは、従来の反社に対する世間の見方、つまり暴力・威力を発揮して寡占的に権利を囲い込んで民の自由を奪って収奪するという見方を抜けるためにそうしている。『反社』は、国家や自治体(法治社会における立法主体であり法の実効性担保の主体)ではない権力機構という意味で使っている。必ずしも暴力・威力を迷惑レベルで行使する必要もないし、民の自由をえげつなく収奪して権利を独占する必要もない。

もはや法治社会の法(それを実効させる国家や自治体)が面倒を見てくれない弱い個を、面倒見てくれるのは『反社』ファミリーしかいない状況になっている、というだけのことだ。

だから、その『反社』は、合法に稼ぐ力のある富豪かもしれないし、個人だけでなく企業かもしれない。民間企業だけでなくNPOかもしれない。もちろん、非合法な活動をする組織・個人かもしれない。合法か非合法か、個人か組織か、それはそれは勃興期は多種多様な形を取るだろう。長い時間を掛けて状況に最適化する中で、だんだん組織化していくだろうが。

その辺は、下記の書物からインスパイヤされた。

今は所詮バーチャル。これから、リアルになるで

国家・自治体が今や目配りしてくれない弱者を、”旦那”が巻き取っていく状況はすでにそこここに見られる。しかし、今のところはまだ、ネットを中心に構築されたバーチャルな活動にとどまっている。国家や自治体の敷く「法治」の範囲内で「コミュニティ」的に動く表の存在と、裏で暗躍する存在に限られる。

しかし、これからはリアルに「一部地域の実効支配」が続々と現れるに違いない。淡路島がパソナ島になるかのように。

バーチャル空間がどれだけ発達しようとも、身体というものの器で生きている人間は、エッセンシャルはリアルだ。バーチャル飯で腹は膨れないし、バーチャル旅行では心は満たせない。バーチャルセックスで子どもも作れないし、バーチャルトイレで大小便を処分もできない。

だから、法治と併存できる範囲での「自由と力の交換」は、所詮限定されているということだ。その限定範囲を越えようとする時、ついにリアルな場を実効支配することになるだろう。

おとなしい言い方・見方になると、自治体と包括連携協定を結んだ企業やNP Oが、自治体と組んで特区を設けるところから始まるかもしれない。国家が、「俺たちに無茶な期待を掛けてくるくらいだったら、君らの自己責任でやるってんだから好きにせぇよ」と驚愕の特区をどしどし認可していくようになったら、この動きは加速していくに違いない。自治体は、”旦那”になる企業やNPOを血眼で探して擦り寄っていき、リアル世界の支配に価値を見出す組織が特区を通じて「自分の好きを通せる代わりにその自治体を一定庇護してやる」という取引として普及する、というのが一番おとなしいシナリオの気がする。

いや、まさかの、封建制度に戻るなんてあるのだろうか。いやいや・・・。それかハマースのような政党が出てくるのかもしれない。

はい、今日はここまでー

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