楳図かずお展@あべのハルカス11/20,2022まで
楳図かずお展へ行ってきた。
この展示は、漫画『わたしは真悟』を読んでからのほうが楽しめる。
『わたしは真悟』の続きの童話になっており、救済の物語だった。
純粋な穢れなき少年少女の清らかな魂と、大人の穢れに満ちた醜悪や悪徳との闘いは楳図先生の作品にたびたび現れるテーマである。
混雑した館内で展示された作品の物語性と絵から伝わるものを読み解くには時間も空間も不足していた。しかしながら、キリコのようなエキセントリックかつ精緻で、サイケデリックな色遣いの絵は、ちがう世界へつながる開いた扉のようで、どこかにある「まりんとさとるの愛の物語」が奏でられた世界を垣間見ることはできた。
ゆっくりと家で童話の世界に浸りたい、と購入した図録だが、特色である蛍光色がCMYKでその鮮やかさを失い発色が悪く、作品が放つ光が失われている。どの図録でもやはり作品の光や魂は印刷にはなかなか載らないものである。それに図版が小さい。
せめて、グラビア印刷でこの童話の絵本を、この図録の価格(4,400円)で売ってほしかった。
この続編童話で悪徳として登場するマダムとまりんの関係は、楳図先生の1970年代の作品『洗礼』と重なる。
美しい少女の皮を手に入れても、美醜の光源はその薄っぺらい皮ではない。まして肉体でも脳味噌でもない。美しい季節を通り過ぎれば、その美に執着し金や暴力で手に入れようとしても、決して手に入ることはない。醜悪な存在の嫉妬や執着が刹那の美を苦しめ、悪徳が世界に放たれ、蔓延る。
マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』、ジュスティーヌの物語でも展開されるプロットだ。
その悪徳の悪臭に蓋をしたり退治すれば良いというものではなく、こうした悪徳と美や善のうねりが世界そのものなのだろう。悪徳を覆ったり化粧できることはあっても、根絶するときがあるとしたら、それは最後の審判の瞬間にしかない。
展示を見終わった後に訪れたあべのハルカスの展望台では、夕日に染まり始めた大阪の街が海へとつながっているのがみえた。水の都というだけあって、豊臣秀吉の時代に大規模な治水が行われているのだが、河口や海に照る夕日をみていると、かつての湿地帯をみるようで、少し前に訪れた釧路湿原の細岡展望台からの眺めとかぶった。眼前にひろがるのは樹木ではなく広大なビル群、道路網、点灯しはじめたイルミネーション。自然とされるものだけが美しいのではない。コンクリート、シリコン、鉄、イルミネーションが地表に張りつき地下にケーブルを根付かせ生い繁り、人々や車が縦横無尽に行き交う。地球にとっては、ただそれだけのこと。
しかしながら、何が美しく、何が醜悪であるかは、たくさんのアーティストが表現してきたように「それは在る」のだ。ルネサンス以降の思考は、人間がその基準をコントロールしているという前提に基づくとしても。
この展示のなかで好きな絵はたくさんあるけれど、そのひとつは、一番最後のドクター森の抜け殻の絵だ。不在の空虚と余韻を残す絵だ。彼が不在なのはロボットと人間がミクスチャーした世界のオズだったからだろうか。
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