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ライターは「自分のことを書く仕事」ではない


「自分のこと」を書くなど10年早い!

昔、コラムニストの山田美保子さんが、「フリーライターになりたがってる」若い女の子の急増について、コラムで憂えておられた(『SPA!』1991年2月6日号)。
山田さんのもとを訪ねるその手の女の子は、「なんでもやりますゥ」(=だから仕事を紹介して下さい)などと殊勝なことを言うくせに、「どんなものが書きたいの?」と聞くと、こんなことをホザくのが常であったという。

「あの~ォ、アンアンとかでェ林真理子さんなんかがやってるみたいな、ああいう自分のことが書きたいんです」

あー、いるいるこういうヤツ。女の子に限らず、男にもいる……と、私はうなずきながらこのコラムを読んだものである。

それから30年を経たいまでも、「ライターは自分のことを書く仕事だ」と勘違いしている人はたくさんいる。
特大級の勘違いである。

ライターと作家の何が違うかというのは、なかなか悩ましい問題だ。私なりに違いを定義するなら、次のようになる。

 ライター=主に他人の意見・見聞を文章にまとめる仕事
 作家=主に自分の意見・見聞・創作を文章にまとめる仕事
(※文末に注記あり)

たとえば、私が大谷翔平を取材して雑誌に記事を書いたとする。
その記事には「取材・文/前原政之」というクレジットが付されるかもしれないが、私が大谷に対してどんな印象を持ったかなどということは、最小限度しか書かない。読者は大谷に興味があって記事を読むのであり、ライターの私に興味があるわけではないからだ。記事内にも「私」という人称は使わない。

しかし、沢木耕太郎さんが大谷翔平を取材して雑誌記事を書くとしたら、人称は「私」になるであろうし、沢木さんが大谷とどんな会話を交わし、どんな印象を持ったかが、それなりの紙数を割いて書かれるであろう。読者の中には「スポーツ・ノンフィクションの大家」沢木耕太郎に興味を持って記事を手に取る人も大勢いるからだ。

――それが、ライターと作家の違いである。
要するに、作家とは、その人自身の意見・見聞が売り物になり、それを売って生活が成り立つ人のことなのだ。
いっぽうライターとは、自分の意見・見聞を売るだけでは生活が成り立たず、他人の意見・見聞をまとめる文章技術を売って生計を立てている人のことだ(作家とライターを兼業している重松清さんのような人は、例外的存在である)。

山田美保子さんが、「ライターになりたがってる」女の子の勘違いを嘆いた理由もそこにある。彼女たちはライターと作家を混同しており、ライターになれば自分の意見・見聞を売って生活が成り立つと思い込んでいる
私もたまにこの手の人と接するけれど、「自分のことを書くなど10年早い!」と言ってやりたくなる。

こういう“自分探し系”ともいうべきライター志望者は、困った存在だ。いきなり作家になれないのはもちろんのこと、ライターとしても「使えない」場合が多いからである。ライターの文章は書く対象(取材相手など)を引き立てることに徹しなければいけないのに、この手の駆け出しライターは文章に「私」を前面に出しすぎ、目立ちすぎてしまうからだ。

ライターの仕事は主役の「バッキング」

以前、重松清さんがライターの仕事をスタジオ・ミュージシャンの仕事に喩えておられた。これは卓抜な比喩で、ライターという仕事の本質を衝いている。

スタジオ・ミュージシャンの仕事には高度な技術が要求されるが、さりとて、主役以上に目立ってしまったら失敗である。

たとえば、宇多田ヒカルのニューアルバムのギタリストにラリー・カールトンが起用されたとしよう。ラリーは、宇多田のヴォーカルがかすんでしまうようなプレイはけっしてしないはずだ。むしろ、練達のプロの技術を駆使して、ヴォーカルがこれまで以上に輝きを増すようなバッキングをしてくれるに違いない。

ライターの仕事も同じことである。書く対象の魅力を最大限に引き出すような、絶妙の「バッキング」――すなわち、取材相手の意見・見聞などを手際よく読者に伝える「サポート」こそが、ライターの果たすべき役割なのだ。

その意味で、ライターの仕事は総じて黒子的である。「自分のことを書く仕事」ではけっしてないのだ。

「フリーライターではちょっと……」

私は、自分で署名記事の肩書きを選べる場合には「フリーライター」で通している。名刺の肩書きもそうだ。が、記事の内容によっては、フリーライターという肩書きに編集部側が難色を示す場合がある。

編集「(記事の署名につける)肩書きどうします?」
私「あ、フリーライターでいいですよ」
編集「うーん、フリーライターではちょっと……。ジャーナリストではマズイですか?」
私「いや、いいですけどね、べつに(苦笑)」

要するに、社会問題を追及するようなルポの場合などに、それを書いたのが「フリーライター」であっては読者に対して説得力がない(と、編集者は考える)のである。しかし、肩書きが「ジャーナリスト」なら読者も納得して読める(と、編集者は考える)というわけだ。

そうした経緯から、私が書いた署名記事に「ジャーナリスト」という肩書きがつけられたものも、過去には少なくない。それらは、私の気持ちからすれば「詐称」に近い(笑)。私は自分をジャーナリストだと思ったことは一度もないからだ。

そして、この「フリーライターではちょっと……」という編集者の言葉は、日本の出版界でライターが置かれている地位を端的に示している。

他人の意見・見聞をまとめて生計を立てているライターは、自分の意見・見聞が売り物になる作家よりも一段下だと思われているのだ。その理由は、「人のフンドシで相撲をとる仕事だから」ということだと、私は理解している。

しかし、他人の意見・見聞をうまくまとめる文章技術も、極めようとすれば非常に奥の深いものである。私は、ライターであることに職人的な誇りを抱いている。

※注/「主に」と書いたとおり、作家とライターが線を引いたように二分されているわけではない。
ライターの仕事の中にも作家的領域があり、思いっきり「自分語り」してよいケースもある(エッセイの依頼など)。逆に、時には作家がライターに近い黒子的な仕事をするケースもある。


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