自己紹介がてら、Uターンするということを考える

こんにちは。今年の6月から前橋まちなかエージェンシー(以下MMA)で勤務をしている小澤 亮太(おざわ りょうた)と申します。

MMAの社員は決して多くはありません。その中にUターンという存在はおそらくいないので、私のような経歴の人間は珍しいかもしれません。高校卒業後、大学進学とともに上京、就職し、今年戻ってきた人間から前橋はどう見えていたのか、今、働いている中心市街地はどう見えるかを自己紹介をしながら書いてみたいと思います。


自己紹介

名前
小澤 亮太
出身
群馬県前橋市
経歴
前橋市内の高校を卒業。大学進学とともに上京。出版取次会社に就職(わかりにくいですが、本の専門商社と思ってください。いつか詳しく説明したい)。約7年勤務。退職して前橋へUターン。
趣味
読書・映画鑑賞・スポーツ観戦(主にサッカーとラグビー)・お笑い関連(特に東京03のライブは毎年行っていました。飯塚さんが追い込まれるネタが好き)・旅行

東京から見ていた前橋

よくある地方都市。これに尽きます。有名な観光地があるわけではない、新幹線や高速道路のハブでもない。車社会。

それでも私にとっては地元ですので、何となくニュースは追っていました。白井屋ホテルという新しいホテルができたらしい、まえばしガレリアというギャラリーとレジデンスが併設されている建物ができたらしい、広瀬川の整備がされたらしいと、断片的な情報は入ってきます。

それでも盆暮れ正月に帰省した時には盆迎え、盆送りに行き、ちょっと旅行したりするくらいしかしていなかったので、前橋の様子を詳しく知ろうという気持ちにはなっていませんでした。

それなのにどうしてUターンしたのか

よく聞かれるのですが、最も大きな理由は群馬、前橋が嫌で上京したわけではないということです。ドラマや映画でよく見る「地方や田舎、両親から逃げたくて上京する」という考えがなかったし、親戚はみんな前橋だし、代々の墓も神社もあるし、長男だし、就職も東京でしたけどいつか実家帰るんだろうな~と心のどこかで思っていたというのがあります。

東京という街は(大学は八王子でしたし、就職後も1年ほど転勤で四国にいましたが)非常に刺激に溢れていて、楽しい街であることは疑いようがありません。

仕事帰りに「神保町で本屋に寄ってよしもと漫才劇場に行く」とか「バスに乗って上野で夜間延長開館している展覧会を見るとか」とか「東京ドームで野球見ながらお酒飲む」とかそういった楽しみが転がっている街です。

しかし、それは日常ではないし、友人や同期たちのライフステージの変化によって失われていくものです。一人で行動したとしても、現実的なところではお金も時間も失われていきます。

コロナ禍(街から人がいなくなったあの光景は忘れない)や仕事で上手くいかないこと(多くは自分の力不足)もあり、色々と考えた結果、冒頭の「いつか実家帰るんだろうな~」の「いつか」が現実として目の前の選択肢に現れてきました。

どこにでも「風土」「営み」がある

私は「風土」「営み」という言葉に含意されているニュアンスが好きです。日本中、どこにでもその土地土地に気候や地形に根付いた、文化や歴史、精神性が生まれ(≒風土)、現代においても人々の生活や仕事(≒営み)がある。

これは東京でも前橋でも変わらず、そこに優劣は存在しません。上述の楽しみは東京の「風土」ですが、前橋にも「風土」があります。例えば平野から見る赤城山は冬になると美しいし、中心街を流れる広瀬川河畔は整備がされてよい雰囲気です。昼食に弁当を持参したときにはそこで食べ、食後の休憩がてら本を読んでいます。寒いときは会社で食べていますが…

私にとってはこの前橋の「風土」が合っていたし、そこで「営んでいく」ことがちょうどよかったのだと思います。それが私はたまたま地元であったということであり、もしかしたら東京が最適解の人もいるし、はたまた全く関係ない場所が合う人もいるかもしれません。

前橋文学館の前にある朔太郎像はクリスマス仕様でした

戻ってきて中心市街地をどう感じるか

前職を退職してからMMAに入社するまで約4か月ほどフリーターをしていました。数か月分の生きるためには困らない貯金はあったので、「仕事を探さないと生きていけない」という状況ではありませんでした。ハローワークや人づてに仕事を探しながら、一度働いてみたいと思っていた書店のバイトをしたり、パートの主婦の皆さんに混ざってドラッグストアの品出しをしたりしていました。

その中でMMAの存在を知り、縁あって働かせていただき、ほぼ毎日前橋の中心市街地に足を運ぶようになったのですが、何に一番驚いたかというとシャッター通りではなくなっていたことです。

私が高校生のときまでに中心市街地に行くときはお祭り(七夕まつりや前橋まつり)のときか、高校の教科書を買うときだけ。年に1,2回でした。

前橋市は2年に1回、商店街交通量調査を実施していますが、私が高校生だった平成23年(2011年)は底地に近いときであり、いわゆるシャッター通りが最も進んでいたときと推測できます。私にはその記憶が強く残っています。

ところが現在の商店街は若い方がオープンされているカフェや人気の海鮮丼屋などシャッターが降りている物件を探す方が難しい状況です。イベント開催に左右されるところはありますが、実際に少しづつではありますが、歩行者交通量は増加している傾向にあります。

シャッターが開くということがどれだけその町や通りに新しい空気の循環をもたらすかということは、多くの人が感じることだと思います。その循環が生まれ続けているということではないでしょうか。

最後に

「MMAの日記」といいながら、長い文章になった上に、とりとめもなくなってしまいました。次回以降はもう少しフラットなものにしていきます。よろしくお願いいたします。

いいなと思ったら応援しよう!