父が脳梗塞で倒れた話1
※今のところ、父はピンピン生きています。
寒い季節が来ると思い出す。
父が倒れたのは11年前の2013年11月20日。
父と母は私が小学生の頃に離婚している。
子供は私と弟の2人。
父はゴルフ、釣り、車や歴史など趣味が多く、
子供と遊ぶよりは自分の好きなことをするのが好きだったように思う。
言い方は悪いがかなりのマザコンで、
祖父母の元へ私たち孫を連れて行くのを習慣にしていた。
怒りっぽく、他人にも怒鳴ったし家族にも怒鳴った。
手をあげられたことも一度や二度ではない。
それでも一緒に釣りに行ったりドライブや食事に行ったり、
気分次第で子供のことも可愛がっていた。
覚えていることが事実だという自信はあまりない。
離婚後母は父をよく言わなかったし、
父は父で、子供と会いたいために子供の機嫌を取るようになった。
だから、何が本当かよくわからないし、私も今更興味がない。
というか、うっすらとしか記憶がない。
わからないけど、私も弟も両親から愛されて育ったと思う。
父が倒れた当時私は23歳。
バツイチで保育園児の息子が1人。
母と弟と息子と実家で暮らし、家業を手伝い、
大学へ通い、教習所にも通い始めた人生で一番多忙だった頃。
弟は専門学校を出て働いていた。
夜の12時頃、珍しく弟が誰かと電話をしていた。
「おねえ、おとんが倒れたらしい」
えー!っとなぜかへらへら笑ってしまった。
弟も笑っていた。
弟と二人で病院に向かった。
家族が倒れるなんて初めての経験で、
タクシーの中でお互いの不安を空気で感じた。
「どうせ酔っ払って頭ぶつけたんやで」
「その辺のおっさんと喧嘩したんかな?」
不安なときは、無理にアホな話をして笑う癖がある。
病院に到着すると父の友人だという女性がいた。
ぺこっとお辞儀をするとすぐに帰っていってしまった。
私たちも慌てていてお礼も満足に言えずじまいだったが、
正直時間も気持ちの余裕もはなかったので帰ってもらえてよかった。
その後診察室に呼ばれ、当直の医師から説明を受けた。
首の太い血管である左の内頚動脈が詰まった大きな脳梗塞。
持病を聞かれ、糖尿と高血圧やと答えると「あー、やっぱり」と言われた。
23時過ぎに駅のトイレで倒れたところを
一緒にいた友人が119番してくれたおかげで発見が早く、
t-PAという当時)新しい効果の高い薬が使えたらしい。
どこにでもある薬ではないみたい。
ただこの薬は100%効く訳ではない。
正直、効くかどうかわからん。
効いたとしても脳出血を起こして余計に悪化する可能性もあるらしい。
で、使うかどうかは家族が決めてくださいと。
その説明の間に検査を終えた父の
「あーーー!あーーーー!」という
壊れたような声が聞こえて頭が真っ白になった。
声は父なのに、感情のこもらない声が
真っ暗な廊下の奥から響いてきて信じられないほど怖かった。
弟がいてくれてよかった。
医師は
「まだ二人とも若いし、悩むやろうけどはよ決めなあかんからな。
わたしなら、この状況なら薬を使うと思います」と言った。
それを聞いた弟が
「じゃあ、その薬をお願いします」と、書類にサインした。
私はこのとき怖くてずっと黙っていただけだった。
本人曰く、
横でお姉が泣いてるから俺がしっかりせなあかんと思ったらしい。
ほんとうは自分も怖かったらしい。そりゃそうか。
頼りない弟が、いつの間にかしっかりした大人になっていた。
私は父の姉であるオバに連絡。
すぐにきてくれることになり、父と面会しに二階のICUへ。
内心またあの叫び声が聞こえたらどうしようと不安で仕方がなかった。
でも、声も聞こえず気持ちが落ち着いた。
父の元へ行くと、意識はしっかりとある。
首を起こしてこっちをきょろきょろ見ていた。
何度か私の名前を呼んだ。
父を目の前にして泣くのが怖かった。
泣いたら良くないことが起こると思ったし、
泣いている姿を見て父に気を遣われるのも嫌だった。
父は何か言いたそうにするけど、
出てくる言葉はメチャクチャな羅列の単語で、
だれも内容が理解できなかった。
「おばちゃん、くるって」と伝えたら、
露骨に顔をしかめて「えー!」っと言った。
医師が
「お父さん、ごめんやけど注射、もっかい頑張ってや~」と言うと
「えー、またかいなー…」と、いつもの調子で言った。
表情はいつものおどけた表情やった。
正直この時、あ、なんや薬効いたんや。よかった。
いつも通りに戻ったやん。と喜んだ。
「まあ、」や、「わかった!」、「えー」は繰り返し適切に使っていた。
伯母が到着し、父とも面会して家族説明を受けた。
右片麻痺、失語、嚥下障害の可能性。
t-PAの副作用である脳出血のヤマはおおよそ四日程度だという話を聞いた。
父の所へ行き、「ほな帰るわな。また明日くるわ」と言うと
「弟、仕事がんばりや」と呂律のまわらない口調で弟の名を呼んだ。
明日主治医である院長から話があると言われ、それぞれ帰宅した。
帰りのタクシーでは、私たちは少し気が楽になり、
へらへらと軽口をたたき、冗談を言いながら帰った。