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恋は盲目と言うけれど book review

『ぼくとリンダと庭の船』
ユルゲン・バンシェルス・作
若松宣子・訳
偕成社

 恋は理性を失わせ分別をなくさせる。正気に戻った時には、自身を疑いもするだろう。

 この物語の主人公マリウスは、好きになったリンダのため、貯金をはたいて中古の帆船を買う。模型の置物ではない。正真正銘のマホガニー製、中型クルージングヨットだ。

 こう書くと非現実的な物語のように感じるかもしれないが、中古ヨットの価格は1000ユーロ、そして修理に200ユーロ。世間の相場は破格らしいが、思い切った買物だ。でも当人に迷いはなく、また彼の周りにも「そんなバカな真似はやめろ」と、反対する人もいない。それどころか、みなが協力的だ。すごいなあ……と、思う。

 たまたま時期を同じくして、同じドイツの作家、ジークフリート・レンツの『黙祷の時間』を読んだ。こちらは18歳の少年と英語教師との恋愛が描かれていた。彼は教師と関係を持った後、何かの時のためにと貯金をおろし、屋根裏に保存できる食料を貯える。そして、今までは父親の手伝いだいだった仕事に、正当な賃金を要求する。

 こうやって二人の行動だけを書き並べると、後者の方が現実的に感じるかもしれない。けれど、実際に物語を読んでみると、マリウスの行動の方が、私にはリアルな気がした。好きになった女の子のために、貯金をはたいてヨットを買う行為が、である。

 マリウスは数学がずば抜けて得意なしっかり者だ。6ユーロと60ユーロがどれだけ違うのかもわかっていない母親に代わって、彼は家計をやりくりしている。実際に仕事で収入を得ているのは、包装紙デザイナーの母親だけれど、取引先との報酬を含めた交渉、納品にいたるまでをマリウスは支えている。二人の関係は良好で、彼は母が大好きだし、天才デザイナーだと称賛する。でも、彼女は八年前に亡くした夫、マリウスの父親の死を今なお受け入れられない。事故のあった自宅の庭のサクランボの木に写真をかけ、今も話しかけたりする。祖母は彼らの生活を、温かく見守ってくれている。

 リンダは転校生だ。夏休みがあけて新学期が始まる日、マリウスのクラスに来た。彼女は見るからにみんなのことを見下し、クラスに馴染む気などまったくない。ちょっかいを出す級友には、どうどうと立ち向かい、相手が先生であっても屈することはない。「先生はほんとうにブタね」と面前で言い放つ。彼女は爆薬。でもマリウスは気になる。ふと気がつくと、彼女をながめている自分がいる。

 一見強そうなリンダにも悩みはある。転校ばかりしていた彼女は留年していて、特に数学は苦手だ。彼女に頼まれ、数学の得意なマリウスは勉強を手伝い始める。

 二人は徐々に親しくなるけれど、リンダは気分屋だ。マリウスは振り回され腹を立てながらも、彼女と一緒にいたい。そして自身に問いかける。ぼくはリンダに恋をしているのか? ぼくは頭がおかしいのか?

 リンダにも好意はあるものの、マリウスの想いは一方的だ。ヨットがあれば、二人の想いが同じくらいになるかもしれない。つまり、ヨットは相思相愛に近づくための道具なのだ。

 二人がヨットに乗ったのは、たった一度だけだった。リンダは最後まで、マリウスに好きだとは言わなかった。これは二人の恋の物語ではない。マリウスの恋の物語だ。いつの日か、二度目の出航はあるだろうか……。

同人誌『季節風』掲載

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