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身を切る改革と東京維新の話

こんばんは。海原雄山です。

最早風物詩とも言える「身を切る改革はなんでやるの?(報酬削減しなくていいんじゃない?)」という議論がまた再燃していますので、備忘録的に自分なりの考えを整理しておきたいと思います。

例によって例のごとく、これはあくまで私見であり、これが絶対的な正解という話ではないので、「こういう考えもあるんだな」くらいにカジュアルに考えていただけると幸いです。


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そもそもなんでもめてるの?

まず今回の論争の発端ですが、去年の統一地方選で初当選した、東京維新の台東区区議木村佐知子氏のスペースが発端でした。

このスペースの中で、おおむね以下のような考えをお話されていました。(誤認があればご教示ください)

・改革する覚悟を示すには報酬カットしかない(国会議員から地方議員まで全員で報酬カットを行っているという迫力を出すための人身御供)
・自分の選挙区ではもっとお金をもらっていいのではないかという声がある
・身を切る改革は目的ではなく手段
・国会議員に比べ地方議員は資金の確保手段が限られており、そんな中身を切る改革の報酬削減を求められるのは厳しい

これに対して、一部の維新支持者から批判が出ています。

そのうち代表的なものは、以下のとおり。

・公約に掲げ実行することを条件に維新公認を得たのに、今になってちゃぶ台をひっくり返すのはいかがなものか
・身を切る改革で覚悟を示すことで行財政改革への武器になるのに、それをしないのは改革する気がないのではないか
・何も議員として成していないのに今言うことではない
・教育が足りない

そもそも身を切る改革とは

ここで、議論を整理するために、まずそもそも身を切る改革とは何なのか。ここで維新の公式見解を引用させていただきます。


(@r tabetaroさん、引用失礼します💦)

身を切る改革とは「議員の既得権に切り込むこと」を指します。

身を切る改革を巡る議論でごっちゃにされがちなのが、身を切る改革と言う言葉に行財政改革を混ぜ込んで持論を語られる方もいますが(※有権者に犠牲を強いる改革とかいう意図的なミスリードを誘うものは論外)、今回のnoteでは、ここは分けて論じさせていただきます。

あくまで、身を切る改革とは、行財政改革を行う上で政治家の覚悟を示す趣旨のもの以外のものではなく、行財政改革そのものではないことは改めて強調させていただきます。

その身を切る改革には、主に以下のものがメニューとして考えられます。

・報酬カット
・議員定数是正
・その他不合理な手当等の存在

このうち「その他不合理な手当等の存在」としては、国会議員における旧文通費等があります。

何もその手当を全廃しなければ身を切る改革じゃないということではなく、例えば領収書なしで使える経費を領収書を求める形に変えることも身を切る改革と言っていいのかもしれません。

まあ、それは置いておいて、今回主に論点となっているのは、「報酬カット」の部分ですので、そこを前提に話を進めていきます。

東京と大阪の違い

今回、身を切る改革がどうあるべきかを論じるにあたり、大阪とそれ以外、代表的なものとして、今回の騒動の震源地としての東京を比較対象として整理したいと思います。

歴史的経緯の違い

この記事を読んでくださる皆さまにとってはご存知のように、維新府政(市政)の前の大阪は、財政再建団体転落寸前でした。今から15、6年前には、夕張市の破綻が明日の大阪の姿とさえ囁かれていた程に追い込まれていました。

そこに、橋下徹氏が府知事に就任し、地域政党大阪維新の会ができてから、急速な財政再建と住民サービスの向上が図られました。

その際に、役人に対して給料カット等も行われたわけですが、まず政治家が範を示すと言う意味で大阪府議の報酬カットをはじめと身を切る改革が始まりました。

特に有名なのが大阪府議会における定数削減です。(動画参照)

こうした自分たちの身分さえも顧みないことを行動で示したことが、大阪での有権者の支持や役人への諸施策への理解を得る上で有効に機能し、実際様々な改革を実行する原動力となったことは事実だと考えられます。

そして、その路線は今も大阪で支持されています。

一方、東京はどうかと申しますと、大阪と異なり、維新が過半数を得る議会はありませんし、公認首長はまだ出てきていません。(なお、東京都の北区区長は、自民党との共同推薦)

東京の自治体は、どこも財政が豊かで、かつての大阪のような財政危機的状況とは程遠い状況です。

極端な例かもしれませんが、千代田区は区債もすべて償還を終え、人口一人あたりの財政調整基金積立額もかなりの額になっています。(下記記事参照)


そのような中で、議員の報酬削減をはじめとした身を切る改革がどういう受け取られ方をされるのかというのは、触れないといけないでしょう。

私も一年近く前まで東京で暮らしていましたが、維新を支持あるいは好意的に見ている有権者でさえも、報酬削減について好意的な意見は聞かれず、むしろ「報酬削減することで仕事のハードルを下げている」というネガティブな評価さえありました。(この件は後述)

まとめると、身を切る改革が大いにウケた大阪は財政再建団体転落寸前という危機があったという経緯がある一方、東京はそのような危機的状況にないという前提条件が異なるわけです。

文化的な違いと身を切る改革の受け取られ方

政治的文脈を離れて、東京と大阪の文化差を端的に表す言葉として昔から語られるのが、以下の話。

東京は高いものを買ったことを自慢するのに対し、大阪はいかに安く手に入れたかを自慢する

これが先ほどの東京での「報酬削減することで仕事のハードルを下げている」というネガティブな評価につながるのだと考えられます。

もう少しかみ砕くと、東京では仕事に対してそれに似合う対価を払うことに重きを置き、大阪は低い金額でも最高のパフォーマンスを期待すると言い換えてもいいかもしれません。

こういう考え方の違いの中では、身を切る改革が理解されないのも無理はないかもしれません。

ましてや先述のとおり東京の自治体は財政的には豊かで、そんな中で改革をするために報酬削減をはじめとした身を切る改革を行いますと言っても、「何で報酬削減しないといけないの?」という有権者の受け止めになることは自然なことかもしれません。

改革と一口に言っても

一方、それでも身を切る改革を大阪以外の自治体の議員にも求める声として、以下のような声があります。

財政的に豊かだったとしても、税金の使い方の無駄はあるはずであり、それに切り込んで改革するのに覚悟を示すのに、身を切る改革が必要である

この考え方、わからないわけではありませんが、少々個人的には思うところがあります。

まず、こうした意見において、改革という言葉に様々な意味を込められています。

整理すると以下のとおり。

①財政再建するための歳出カットなど「財政の改革」
②補助金から住民への直接給付に変える等、シンプルに税金の使い方を変える「歳出の改革」
③規制改革
④その他細かな改善

①を行うために②を行うということもあり得るということも考えられますが、ここでは話を分かりやすくするため、あくまでも①のための歳出の改革は①として②とは別物として扱います。

かつての大阪では、明らかに①が必要で、実際公務員の給料カット等も行ってきました。その際に役人だけにしわ寄せがいくのではなく、政治家も自らの身を切る必要性がありました。

一方、繰り返すように東京の自治体の多くは①の必要性が少ない、あるいは必要性がないわけです。

恐らく財源が豊かであるがゆえに無駄遣いも大なり小なりあるでしょう。しかし、それを削減しなければ二進も三進もいかないという状況ではないわけですから、いくら報酬削減を唱えたところで、「なんで?」という反応になるわけです。

では、②はどうでしょうか。

①と異なり、歳出総額を変えるというわけでは必ずしもないにしても、税金の流す先が変わるわけですから、これにより泣きを見る人が大なり小なりいるわけです。

この泣きを見る人に対して、自分たちも身を切っていますということを示して納得が得られるものなのか、私自身はあまりピンとこないのが正直なところです。

①のように財政が危機なのでみんなで痛みを分かち合うという趣旨なのは納得するわけですが、それと異なり、②の場面において、なぜ政治家が報酬削減を行うことが必要なのかがその理由が見つからないのです。なので、②の場面で身を切る改革が武器になるという理論がどこまで説得力があるのか疑問ではあります。

恐らく東京の維新議員の中には、ここら辺で意識のギャップが生まれているのではないかと考えられます。

「①の観点から身を切る改革が必要という理論」は財政危機だった大阪の文脈の中では有効に機能するわけですが、財政危機ではない東京においては説得力はありません。

では、②の観点での改革に果たして身を切る改革が必要かというと疑問。これは③④についても同じことが言えます。

よって、東京において本当に身を切る改革の報酬削減は要るのかという問題意識につながるのだと考えられます。

政治倫理の観点

一方、政治倫理的観点からの身を切る改革の必要性についてはまた別の議論になります。

今回統一地方選で維新公認で当選した議員は、身を切る改革の実行を公約に掲げたわけで、それを反故にするというのは許すべきではないでしょう。

また、公認を得る上で誓約書には身を切る改革の実行も条項として含まれているわけです。

そんな中で、身を切る改革を実行していないとしたら、批判されなければいけないわけですし、実際足立区の維新の区議は身を切る改革の実行を拒み離党を申し出ましたが、除名処分となりました。(下記参照)

私はこの処分は妥当だと思います。

政治家である以上公約を果たすということは必要なわけですし、有権者との約束なわけです。それを果たせなかった場合、次の選挙で有権者の審判に付されるわけです。

なので、公約や誓約に違うのはダメだという批判は、私自身も納得の批判なわけです。

維新を維新すること

一方、こうも思うわけです。

「党内の課題や問題があるとすれば解決に向けて対応するのもまた必要であり、自党の改革もできないで自治体の改革ができるのか」

私は何も公約を反故にしろと言っているわけではないわけです。次の選挙の際にはその公約を変えることは、必ずしも妨げられるべきではないという意図です。

東京の区議は必ずしも報酬が安いわけではないわけですが、それでも、もし不都合があるとすれば、決まり事を変えるのもまた必要であると考えられます。

ましてや、自党のことなので、それさえ改革できなくて、どうして行政の改革ができるでしょうか。

もちろん独りよがりではいけませんので、党内で賛同者を集めるべく仲間集めが必要です。そういう必要なステップは踏むべきでしょう。

今回台東区区議が不特定多数の方が聴くことができる旧Twitterのスペースで自説を開陳されたのは少々やり方としてまずかったと思います。報酬が少なくなることへの愚痴にしか聞こえず、不必要に心象を悪くしてしまっただけだったかもしれません。

ただ、その問題意識については決して全否定されるべきでもないと思います。

(当該区議は聡明な方なので、まさか、大阪の歴史的経緯等も踏まえずに持論展開するほど軽率なわけではないと信じてますが)論点整理をしっかり行ったうえで解決案を策定し賛同者を増やす努力を行えば、立派な成果につながり得ると思います。

身を切る改革は維新の看板政策の1つではあるかもしれません。あるいは、人によっては前提と言う人もいるわけですが、聖域と言うわけではないはずです。

かつてと異なり、大阪以外の議員が増えてきました。

今一度、何のために身を切る改革を行うのか、どういう効果を狙っての者なのか、何をどこまで行うべきなのかを整理して、身を切る改革を再定義するべき時期に来ているのではないでしょうか。

誰かの言葉を借りるなら、「維新を維新する」ということも必要なのかもしれません。

補足

正直な話、上記の話とは別にして、「そもそも身を切る改革の中身もわからずに公認申請した」候補者が一定いる可能性は否定できないと思います。

数の拡大を優先した故に少々候補者の質を犠牲にしたと考えられる例がいくつか見られたので、そもそも維新の経緯をご理解なくただ勢いがあるからとか他の政党から公認をもらえなかったから維新に来たという人も少なからずいるのではないかと考えられます。

これは党勢拡大を行う上である種必要悪なのかもしれませんが、そうだとしても当選後にも改めて研修などで考え方の落とし込みは必要だと考えられます。

果たしてそこまでフォローできていたかというのは、上記の本筋とは別問題として直視していかないといけないものだと考えられます。

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