『すべては壊れる』ラマルシュ=ヴァデル
累々とした屍骸の中で「私」は死を見詰め続ける。紡がれる独白は、思念の蔦が森を成し景観を変貌させるような止め処ない運動を思わせ、一方で死の臨床試験報告書でもある。
「占領」はテレビ中継され、狂騒を煽る。蹂躙する女性たちは武器・武力のメタファーのようだ。楽園であった家も「占領」され、私はシステムに取り込まれていく。
マルトがもたらした災厄は洪水であるが、「国家から国家への贈り物」とあり、その破壊力、影響力からするに原爆も暗示しているように思う。母たち、死んだ子供たちと共に詰め込まれた家は強制収容所であり、この上なくフランス的な名を持つ者は私に銃殺される。フランスへの、戦争・全体主義への、そして現代社会における或る種の無関心への強烈な怒り。
私は義務によって増殖した子供のうち、長男のみをピエールと名付け、慈しんだ。「占領」されて後、動物たちの屍体と腐臭の凄惨な描写がなくなり、私の子供たちのそれへと代わる。だが、洪水が来る。
溺死した動物たち、そしてピエールは「生贄」となった。食すのは私の犬たちである。
ボヌール夫妻の子供たち――排泄しない息子と拒食する娘――に対し、私の犬たちの強靭さが際立つ。己の子を糧とする犬たちに対し、私が抱いたのは「感嘆」だった。
「切断手術の首飾りの宝石ひとつひとつに打ち勝ち」とあり、これが民衆の蜂起によるフランス革命に関連付けられるなら、私の感嘆とは死と再生の契機を見出した際の衝撃、絶望と希望の間にあるあらゆる感情のせめぎ合いなのだろうか。だが私は蜂起しない。事象と己とは分断されており、「占領」された私はただ見詰め、感嘆するしかない。
私が耳にしたのはごく一部の地域が破局する際の悲鳴であって、喧騒は続き、テレビの向こうの人々は日常を送っている。屋根を隔てて安全な場にいる愛しい犬たちを思いながら、嫌悪した世界の中に私は沈む。洪水が全てを無に帰し、新たに正しい社会が築かれるのではない。愚者はその創作物もろとも徐々に窒息し死んでゆくのみなのだ。犬たちの存在は正しく、獰猛で美しい。彼等は明るい空の下で生きていく。
「今日では、誰ひとりもはや誰の心も個人的に占めたりはしない、それはあまりにも高くつきすぎるのだ」
やや感傷的な一文だ。もしや著者は牧歌的な理想を求めていたのではないかと思った。数字に踊らされず、見返りを求めない犬たちと送る静かな暮らしを。生殖が義務であり、母たる存在となることを決定付けられている女性と子供ばかり出てくるのはその為ではないか。「ひとりの父であることへの失権」という言葉に顕著なように、社会的存在である事への嫌悪感も窺える。本書における強毒型の表現も真なるものを見詰めようとする真摯さの証左なのかもしれないが、何にせよ読みが浅い。澪などなく、ただひたすら黒い笑いの濁流に飲まれるように最終頁まで繰った。