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サブカル大蔵経650蛭子能収『ひとりぼっちを笑うな』(角川oneテーマ21)
エビス・ブッダ。蛭子菩薩。
今までネタとして笑われたり、奇人として恐れられていた思考や発言が、本書によって現代日本にハマったといえる記念碑。
一旦そのグループの一員になってしまうと、どんな非道なこともしかねないということ。グループになってよいことなんて、ひとつもないんじゃないかな。p.42
グループや集団・群れを、根源悪にしているところが秀逸だと思いました。まさに、現代版「犀の角のように歩め」。
認知症になられてから、何を考えられているのでしょうか。このインタビューも貴重だと思いました。
愛する人がそばにいるからこそ、僕は安心してひとりぼっちでいられるんです。p.224
「みんな本当は蛭子さんみたいに、自分勝手、自由気ままに振る舞いたいんですよ」と。僕としては相当いろいろ気を使っているつもりなので、自分勝手にやっているつもりはないのですが、僕みたいに振る舞いたいと言う人がいるのはちょっと衝撃的でした。p.5
こうなりたいと思わせる。まさに菩薩。そして蛭子さんこそ気を遣ってきたという事実。
関心があんまりない人がいるって言うことも認めないといけない。でもそこで間違ってもその人たちをけなしたり非難したりしてはいけないんじゃないのかなというのが僕の考えなんです。p.19
このラインが経典的。
そうやってグループでカジノに行くと、1人で行った時よりも明らかに横柄になるんですよ。p.35
団体旅行の暴力性。
いじめっていうのは、大体集団でやるものですからね。共通の敵を作ることによって、その歪んだ絆を深めていくわけです。/それはやがて差別につながっていくと、僕は見ているんです。p.40
イジメはなぜあるのか。絆のため。
友だちだから断れる、ならわかるけれど、友だちだから断れない、というのは理解できません。誘いを断れないような存在を友だちと呼ぶのなら、僕は友だちなんていらないという考えです。p.54
朋友の定義
他人に好かれるためには、他人に余計なことをしないこと。ただそれだけで十分。p.79
なぜそれができないのか。おせっかいして嫌がられると、逆ギレしたり。承認されないと不安になったり。〈余計なことをする〉のが、人間の本質なのでしょうか。
友だちが寝込んだら、何もせず風邪が治ることを待つだけです。p.80
自分がされたら嫌なことはしない。見舞いは誰のために。
個性は、自分が決めるものではなく、人が見て判断するもの。自分がアピールするようなものではない。p.105
自己紹介・自己規定の欺瞞。
自分を低目、低目に見積っておく。プライドが傷ついたと怒る人は自分を高く見積もりし過ぎている。p.115
番組見る限り、このライン設定があったからこそ、ギリギリ踏みとどまれたのか。
戦争はやってはいけない。自由を奪うことは反対です。p.126
蛭子菩薩の願い。自由のために。
仕事は自由とお金を得る手段、もちろん一生懸命やりますが、自己表現する場なんていう思考は理解できない。自由時間の方が大事。p.166
表現よりも好きなことをする。
競馬場、映画館、図書館、ひとりだけどひとりじゃない不思議な感覚。なによりも心地良い。p.186
理想的浄土はすぐそこにあった。
妻の死後、フリー雀荘に救われた。誰も妻が亡くなったこと知りませんからね。p.198
昔から通う所に救われる。雀荘寺。
子どもより妻が大事。子どもは所詮子どもなんです。考え方も違う。血のつながりはどうでもいい。p.202
教科書に載せてほしい。親だけでなく、子供たちが楽になるのではないか。
ペットを飼うことによって孤独を満たしていく人は、どこか自分のなかで世界を閉じているような気がします。動物の気持ちはその人の思い込みに過ぎないわけだから、ある意味、自己完結しているとも言える。まやかしのように見えます。p.210
ペットが人間を閉じさせるのかも。
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