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サブカル大蔵経221國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社)

反原発運動にも原発推進派にもなかったもの。人間と技術、ハイデッカーを通して人間と原子力の関係に分け入っていく。

私はわからない、と言う信頼できる考察。ようやくたどり着けた。世界中に翻訳してほしい。

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哲学は、原子力の問題と向き合ってきたか?(帯)

原子力と哲学。

眺めること、セオリー、理論、真実。ところがガリレオの発見によって観照にかわり行為が前に出てきたとアレントは主張します。観照的生活の低下、活動的生活の優位。p.42

 〈眺める・考察〉より〈行動・実践〉を良しとする時代。

1955年、読売新聞「ついに太陽とらえた」と言う連載を開始。つまり原子力と言うのは太陽のイメージなんですね。太陽をわれわれはもう手にした。空の彼方ある太陽にはもう頼らなくていいんだと。原子力の魔力。p.66

 原子力とは、太陽を手に入れた、こと。

真理は必ずしも人を喜ばせません。いや、真理はむしろ嫌がられる。その意味で哲学は必ず世の中と衝突するのです。哲学はもっと強く反応すべきだったのではないでしょうか。しかしほとんどいません。1人だけ例外的な人物がいました。その人物こそマルティン・ハイデッカーに他なりません。p.76

 真理と現実。空気を読まない真理。真理こそ人を傷つける。それでも、真理、真実、真如。真如がやって来る、如来。如来は人を傷つける。

ハイテク化が注目しているのは管理と言う問題です。人間は、管理し続けることさえできれば、この途方もないエネルギーが自分たちのものになると思い込んでいた。ハイデッカーはその思い込みあるいは思い上がりに横槍を入れているのです。いや、管理し続けなければならないのは、管理できていないと言うことだ、と。p.85

 管理という技術と思考。万能と幻想。

ハイデッカーと言う人は、原子力時代と言うものについてとにかく突き詰めて考えようとした哲学者だった。ある意味では突き詰めすぎてどこに行ってしまうのかよくわからないと言うこともありますし、そこには警戒しなければいけません。2000年以上もさかのぼって古代ギリシャまで行ってしまうわけですから。もしただ1人1950年代の思想に現れた哲学者の施行に根本的な問題点があるのなら、それは明らかにしなければならない。なぜならその思考の問題点は、脱原発へと向かう思考がもしかしたら陥るかもしれない問題点であるかもしれないからです。p.96

 この視点が本書の1番の示唆。拠り所を見つけようとする運動への視座。

もちろん、ハイデッカーは原子力の危険性に気づくことができたけれども、その後の理路を誤ったと言うことも考えられます。彼は政治的には大いに誤った人です。ナチだったわけですから。もしハイデッカーが誤っていたのなら、我々もまた、原子力の危険性を考察する中で、ハイデッカーと同じ誤った理路に入り込んでいる可能性はないか、と。(中略)僕にもまだ何が正しいのかわかりません。本当にわかりません。今回の講義でどこまで答えが明らかになっているのかもまだわかりません。ですが、ハイデッカーだけが初期段階でこの技術の危険性に気づくことができたと言う事実は実に重い意味を持っています。(中略)ハイデッカーを検証するとは我々自身を検証することなのです。p.126

 対立ではない、正義の比べっこではない姿勢。その勇気。

僕は原発をなくしたいと思っています。心のそこからそう思っています。しかし、その論理を作るときに、何か危うい概念が入ってくる余地は無いのだろうか。こういったことを考えるのが、原子力時代における哲学の使命ではないかと感じています。p.164

 哲学の使命。これをどれだけ持つことができるか。新しい運動の限界と可能性。

原子力と言う具体的問題を考えたいのに必要以上に「哲学的」になってしまう危険、ハイデッカーを経由することでかえって原子力から遠ざかってしまう危険、脱原発運動を応援したい気持ちで始めたものがかえってそれに対する時半になってしまう危険、最終的に何の結論も得られない危険。すべてこれらの危険をわかった上でやっています。p.166

 結果的に何も得られない覚悟。自国が滅ぶのを見るブッダのよう。

ハイデッガーはニーチェがぽろっと書いた砂漠が広がると言う言葉をひき、砂漠化は破壊以上のものである、砂漠化は殲滅よりもいっそう不気味であると言いました。p.189

 破壊より恐ろしい砂。

そうしなければ、かつて大方が賛成していた「原子力の平和利用」に人々が賛成したのと全く同じ仕方で、大方が反対している「原発」に反対すると言うことになってしまう。(中略)ハイデッカーは、原子力のような技術が世界を支配することを決めたけれど、それ以上に不気味なのは我々がそのことについて全然考えていないことだといえます。ではわれわれは技術とどのように付き合えばいいのか。ハイデッカーの答えは、技術を使わなければ人間は生きていけないのだから、技術を使う事は「然り」。しかしその技術の方が我々を独占し始めたら否であると言うものです。入るとはそのような態度を放下と呼びました。少し入ってからの答えには基準が何も与えないっていません。p.254

 技術の独占の危険性。医療もITとか、みんなそうなのかも。

なぜわれわれはこれほどまでに原子力に惹かれるのか。この気持ちの理由にまで到達しなければ、真の脱原発にはならない。(中略)その問いが考えられなければ、原子炉が地球上から消滅しても、われわれはまた何か似た別の問題に直面するだけではないのか。p.268

 なぜ賛成するのか。地元の方々の思い。それは、地元の方々だけでない。

これでやっと何にも頼らなくても生きていけるぞ、と言うような気持ちがまた出てきた。なぜ原子力が悪魔的な無力を持っているかと言うと、人間の心の根底にあるそうした弱さに付け入ってくるからだと思います。悪魔はいつも人の心の弱さを利用する。p.278

 今の寿都や神恵内の現状。積丹に入れない地域。すぐ隣に積丹がある比較地獄。

例えば脱原発については誰それが言っている、このドクトリンに対応でも大丈夫だとなると、原子力信仰と戦っていたはずなのに、自分たちが信仰に陥ってしまう。p.284

 反原発運動の陥る状態。正義への焦りが信仰になる。

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永江雅邦
本を買って読みます。

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