
サブカル大蔵経137鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』(晶文社)
聴く人が話すと、なぜ名言が多いのか。声の大きな人が目立つ中、本物の声は聴くから始まる。
ただ、原発事故については、これを迫害や被害と言ってすますわけにはゆきません。それは私たちが長らく望んできたことの帰結としてあるからです。p.37
うん、私たちが犯人なんだ。
じぶんが何を知らないかを知ることは、たんに何かを知ることよりもはるかに難しい。いいかえると、じぶんには何が見えてないかがうっすらと見えてきたときはもう、理解への足取りはかなり進んでいると思ってよい。p.85
これ、すごいなぁ…。知ることよりも、知らないことを知ることが難しいか…。そして、それが解明の光なんだ…。
ドイツ人が、自分たちが集団としてなす判断に常に懐疑的であることを肝に銘じていると実は重い。p.101
ドイツは集団の判断に懐疑的か…。これもすごい。
かつての私は、どうでも良いささいな事柄でまわりの人間を峻別しては、嫌ったり嫌われたりして人間関係をこじらしてしまうのが得意でした。その私が「選ぶ」という行為を放棄してぼんやりしてしまっていたのです。それは無意識のうちに、人生でどんな人と出会うかは、実は選べそうで選べないことだと思うようになった自分と出会う事でした。これはなかなか愉快なことでした。小山直「浦河で生きると言う事」『べてるの家の非援助論』p.108
どんな人に会うかは選べない…。
物理学者の池内了さんがこのたびの原発事故に触れて、4つの押し付けと言うことを指摘された。政府と電気事業関係者と消費者たちは第一に、原子力発電施設を過疎地に押し付けた。第二に、被曝労働を下請け労働者に押し付けてきた。第3に、核廃棄物を未来世代に押し付けようとしている。第四に、汚染水を世界の人々に、生き物たちに押し付けていると。責任放棄の構造。日本社会は地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費すると言う仕組に変えていった。その結果日本社会で起こったのが、この相互支援のネットワークが張られたコミュニティー例えば町内、氏子・檀家、組合、会社等による福祉厚生活動の痩せ細りだ。公共的な機関へのお任せの構造である。押しつけとおまかせの合わせ鏡が日本を覆っている。p.111
押しつけとおまかせが日本を…
ホスピス医療の医者と緩和ケアについて話したことがある。なぜ痛みは緩和されねばならないか。その根拠とでも言うべきものをずっと考えていると言われ、それについて意見を求められた。少しでも楽にしてあげたいからと言うのは当たり前として、その根拠を問われたのだった。次のように語ったと記憶する。激痛は人を「いま」という瞬間に閉じ込める。つまり人から未来と過去を奪うからではないでしょうか、と。人が生き生きと感じる時間は今と言う瞬間だけではない。流れ去っていく感覚と待ち受ける感覚が伴っている。そうした心のなびきを不可能にする。悔恨や追悼、希望や祈りといった、人が生きる上で支えとなしうるものを成り立たせなくすることで、人の尊厳を犯す。p.125
痛みが過去と未来を奪うか…
阿藤智恵が、石井ゆかりのインタビューに<平和な世の中は、みんなものすごく口論してるんです。何も問題が起きない状態が平和なんじゃない、関わりたくない人や見たくないものが、みーんな表に出てきます。>p.147
口論のある場の方が平和なんだな…
客なのだから、つまりこちらが支払いをするのだから当然と言うふうに、子供が大人をこき使ってる。修学旅行生がタクシーに乗って街を周遊する光景である。この全能感と無能感の間の魂の揺れが子供をことさら不安定にしているように思う。p.176
鷲田さんが特に危惧する子供の生活
人々は、ピースサインとともにハッピー・ラッキーと口走る。ハッピーはハプニングと言う言葉とともに運や偶然を意味する中世英語のhapに語源を持ち、一方、ラッキーは運や巡り合わせを意味する中世英語のluckeに由来。p.190
ハッピーは、ハプニングなんだ…。タイのチェンマイの僧侶も言ってた。「ハッピー、ラッキー」
大学って、早く出たいけど、ずっといたい不思議なところですね。ラジオパーソナリティの彼女は、1つの問いを温め、それについてゼミ生と思って存分に語り合えた。いっそう忙しくなったはずなのに彼女にとってそれは別の呼吸をすることでもあった。時間はいくつも持った方がいい。同時進行p.195
いろんな時間をもつ、か。
哲学するとは、知っている(と思い込んでいる)ことを改めて問い直す作業だ。ヨーロッパでは中学の主要科目。p.226
そうか、それを鉄がというのか…!
外国語学部とか芸術大学の学生は元気だったと言うことだ。なぜ外国語学部と芸術大学なのだろうと考えたが、外国学部は会話ができなくては大学生活が成り立たない。芸術系も道具や楽器を使えねば何も始まらない。だから1年生からそれだけを叩き込まれる。総合大学のように入学してそこで何をすればいいんだろうと考え込む暇もない。とことん仕込んでおけば後ほっといても何とかなると思っている。p.235
仕込みと型の後の自由と創造
私の友人は、大学に入って講義を受けて、話は整合的だが何か胡散臭いものと、話はよくわからないがなんかすごそうなものの区別がつくようになればもう大丈夫と言っていました。p.240
〈整合〉こそが危険なんだな…
真理探求と言う課題の前では碩学も初心者もないことを身をもって教えてくださった。それから私も練習では互いに皆、さんをつけて呼び合うような授業にした。p.246
すごい学者ほど真理に公平
どんな専門家が良い専門ですか?
高度な知識を持っている人でも、正しい答えを出してくれる人でも、責任をしっかりとってくれる人でもなくて、一緒に考えてくれる人と言うものであった。p.254
一緒に考えましょう。
討論のテーマがなんと芸術にとって本当に芸術大学は必要ですか?p.313
大学の意義
理性にあたるドイツ語vernunftやフランス語entendementはともに聴くを意味する動詞から来ている。日本語の知るは、領るに通じ、対象支配するといった含みがあるが、ドイツ語やフランス語だと逆に出来る限り自分は引いて、相手の声に耳をすますと言う意味がこもる。p.331
知るは領土。欧州は聴く。
同じ関西人としての作法がある絶えず茶々を入れて会話に弾みをつけることそして何度も言い切らないで話が次に続くような降り方をすることこれが関西人が子供の時からしてくれてコミニュケーションの谷なのである。p.343
まず話す。放つ。
いいなと思ったら応援しよう!
