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サブカル大蔵経856井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)
これでもかとdisりながら、実はこれすらを受け入れるであろう京都の懐の深さを、結果的に自慢する構造にもなっている。
母と妻が京都なのですが、本書の内容をうまく伝えられません。京都人は本書をどう読んだのか。それが最大の謎です。
君、どこの子や。
嵯峨から来ました。
昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや。p.18
洛中至上意識。御所周り、祇園祭至上地域。以前福岡を訪れた時も博多祇園山笠の地域が博多だという意識も地元にあるということも聞いた。お祭りが地域のプライドと差別を生むのか?
山科の何があかんのですか。
そやかて、山科なんか行ったら、東山が西のほうに見えてしまうやないの。p.29
山科はどこだろう。私も何度教えられてもいまだにピンとこない。山科の存在を認めると揺らぐ都。
町衆は、東京や大阪の資本が支える店を、外資系と言う。町屋カフェを、「でも、あの店、外資系やで」p.36
京都を今襲おうとしている大阪の維新。外資系にやらせといて、ほな…かな?
私が、京都人をなじりたく思うのは、私に差別意識をうえつけた点である。私は亀岡や城陽を見下ろす、おろかな人間になってしまった。京都的な差別連鎖のはしっこに、いつのまにか据え付けられたのである。p.43
私もその系譜に入っているし、本願寺や宗派の本山もその影響も受けているのかもしれない。京都中央主義という呪縛。
洛中人士は、京都という名に、ひとかたならぬ誇りを抱いているだろう。しかし、リオの市民はキョオトという響きに、まずゴキブリなどを想い描く。p.55
リオの害虫駆除会社名「キョオト」
お坊さんら、ようあそびにきはりますえ。お宗派は、あんまり関係おへんなあ。p.75
お宗派!!
超越的な信仰から解放される近代化の度合いでは、京都の僧侶が一番すすんでいる。欧米のそれをもはるかに凌駕する。やけくそ気味ではあるが、そこを誇らしく自慢する手はある。p.86
聖俗の境を越えた先端性の魔力。
室町以降、京都の寺はホテル業を営み出した。信長が本能寺に宿をとったのも慣例に従ったとみなしうる。p.122
そうか、本願寺が新撰組の屯所になったというのもその系譜か…。
ほとんどが江戸時代に建て直された建物である。京都を復活させたのは家光までの江戸幕府だ。p.148
井上先生の本業での印象深い説。
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