サブカル大蔵経51 中川右介『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)
<トキワ荘>再現物語というよりも、貴重な「漫画出版社史」という趣きでした。
安孫子素雄は氷見市で生まれた。手塚治虫の6歳下。安孫子の生家は曹洞宗の光禅寺という寺で父はその第49代目の住職だった。父は初めて妻帯した住職。安孫子は光禅寺で生まれた最初の子となる。ところが、小学5年になって父が病気で急死。本山から新しい住職の一家が来て、僕たちは寺を出なければならなくなった。と。p.12
A先生は、お寺の生まれなんですね…。出されたような形なら、あまりいいイメージはないのかな…。
明々社(少年画報社)と秋田書店は創業者がともに小学館出身だが資本関係は何もない。娯楽系少年雑誌市場で集英社秋田書店明々社の三社はライバル関係にある。小学館の本丸である学年別学習としてもライバルの双葉書店と学研の創業者は小学館出身だ。小学館は人材の宝庫だったことになる。p.99
小学館本家組が乱立する中で、少年画報社の独自性の歴史を確認。
これを見て福井が激怒した。p.168
『イガグリ君』揶揄事件。手塚のトラウマ。
赤塚は、「ヒゲオヤジの顔に斜線が入っているだろう。先生だったらこんな風に描かない。線が太いところなんか完全に小野寺だ。」と指摘した。p.195
赤塚不二夫の眼力。
藤子不二雄の名をあげたら、あの人たちは絶対にダメですと言われた。p.202
原稿落とした藤子不二雄のトラウマ。
赤塚はいつしか、つげ義春とも親しくなっていた。つげ義春は赤塚に、貸本漫画を一冊書けば35,000円になると教えた。p.225
この二人の交流、たまらない。
手塚は横山孝雄にほぼ1日付き合い最後は上野駅までタクシーで送った。1介のファンに対しこのような心遣いをする事は余人のできることではなくと横山は書いている。p.236
横山孝雄さんとは北海道登別の知里幸恵銀のしずく記念館で一昨年秋にお会いできました。数奇な運命です。
藤子不二雄の発表の舞台は、漫画王は秋田書店だが、それ以外の幼年クラブ、ぼくら、たのしい一年生は講談社、少女は光文社。後に小学館色が強くなる藤子不二雄だが、初期は講談社系の漫画家だったのだ。p.250
藤子不二雄が講談社というのも新鮮な響き。
赤塚不二夫は横山光輝のアシスタントもした。赤塚は横山のことを、彼の持論は即物的で、漫画家なんて、大衆小説だけ読んでいればいいとさえ極言した。と書いている。p.273
非トキワ荘の漫画家たちも気になる。
当時のトキワ荘には、藤本、安孫子の母も石森の姉もいたので、若い男の群れの中に水野が1人だけだったわけではない。紅一点と言うのはあくまでマンガ家としてであり、トキワ荘には女性もたくさん暮らしていたのだ。p.290
藤子不二雄それぞれの母親がトキワ荘にいたというのがこれまた新鮮な響き。
少年サンデーと少年マガジンの運命を決めた2日の差だった。この2日が小学館と講談社の運命も決めたし、漫画の歴史も決め、アニメの歴史も決め、つまりは出版とテレビと映画の歴史を決め、日本と世界のカルチャーの行方も決めたことを、この時はまだ誰も知らない。p.315
藤子不二雄、小学館連載決定。
赤塚の母もまだトキワ荘にいたので、石森の食事の世話を続けた。この年の暮れに新潟から父も出てきて両親は一緒に暮らすようになる。p.353
トキワ荘というのは決して若者だけの城ではなかった。
こうして石森章太郎のトキワ荘時代も終わった。23歳だった。赤塚不二夫は26歳、安孫子元雄は27歳、藤本弘は28歳だ。彼らはトキワ荘と言う大学を卒業したのだ。p.354
ほんとみんな若い…!
このまま同じ路線を行ったのでは少年マガジンは少年サンデーに永久に勝てない。そこでマガジンはアンチ手塚治虫、すなわち非トキワ荘人脈の漫画家で勝負しようと決めた。貸本マンガ出身者の劇画である。ブレーンとなる作家が欲しかった。思いついたのが梶原一輝だった。p.362
小学館トキワ荘作家に対抗して講談社は水木しげるら貸本系作家に声をかけたのかな?そして劇画も始まる。あらためてサンデーとマガジンを股にかけた赤塚不二夫のすごさ。