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サブカル大蔵経894小田龍哉『ニニフニ』(左右社)
南方熊楠は、仏教を背負っていた。p.242
私もずっとそう思っていました。
南方熊楠は著作の中でなぜこれだけ経典を引用するのだろうか。熊楠を通した新しい仏教の見方があるのではないかと思っていました。
そして、本書が現れました。
古来よりいわば日本思想史とは翻訳の歴史であった。南方の学問も、そのような思想指摘文献の延長線上に構造されたものに他ならない。p.17
熊楠の思想を、個人の異能ではなく、背景と系統を踏まえてきちんと評価する姿勢が感慨深いです。そして鍵を握る土宜法龍。
土宜法龍とのバディものとしても読める。
言説と自己とが一体化してしまうことや、反対に、「二」としてよそよそしく分離してしまうことを拒否し続けた。p.20
熊楠の学問への冷静な姿勢。議論においても大事な視点。
「事」が、南方と「理」のあいだに「距離」を発生させる。p.66
著者は熊楠の嘔吐に注目します。嘔吐とは距離を作るで、それは熊楠の提唱する「事」を体現したものであると。
そもそも「事の学」における「事」とは、言葉で語ることが困難な「理」をなんとかして語ろうとするために投入された概念であった。p.93
しかし性急に語らず、距離を置き、無理に結びつけない。語れる理論と語れない事物の相克。熊楠の思想はウィトゲンシュタインより早い?
「理」の手前に「物」と「心」が交わってできる「事」という議論の場を立ち上げた。それが「事の学」の骨子である。p.107
物と心が事になる。
「理」と「智」との「二而不二」というテーマであった。p.107
真言僧・土宜法龍の教学。
「社会事業」としての「事」という解釈は、すでに土宜が1880年代から模索していたものであった。p.129
宗教の近代化を背負う土宜法龍。宗教の意義と世俗との関わり。宗教と社会。非常に現代的。
南方・土宜往復書簡は、実は両者の共作による「舞台『維摩経』」にほかならなかったことが、浮かび上がってくる。p.186
在俗維摩としての熊楠を引き出すためにあえてぶつける土宜法龍。
「貴下よ、幸に独覚根性となるなかれ。」(土宜法龍から南方熊楠への書簡)p.195
独覚というワードは熊楠にどう刺さったのか。ここから維摩熊楠がさらに覚醒していく。
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