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サブカル大蔵経626加須屋誠『地獄めぐり』(講談社現代新書)
私たちは皆平等に、生まれながらにして、地獄に落ちる資質を与えられているのだから。p.24
地獄こそ、われらそのもの。
地獄こそ、スタート。
極楽より、地獄。
親鸞聖人が待っている。
地獄一定住みかぞかし。
この渡り、流れ早きこと矢を射るがごとく、波の高きこと大山のごとし。波の中に、諸々の毒蛇ありて罪人を責め喰らう。また上より大盤石流れきて、罪人の五体を打ち砕くこと微塵の如し。死すれば活きかえり、活きかえればまた砕く。p.36
三途の川アドベンチャー
現世と来世の境界である三途の川辺にて初恋の人と出会うと言うロマンチックな幻想。p.38
三途の川ロマン。(追伸)映画『地獄』でも四郎と幸子が再会して真実を告げるのは三途の川の岸辺でした。
源信は『往生要集』にてまず最初に亡者同士の闘争を冷徹に観察し、そこから地獄の苦しみを説き始めた。地獄に落ちたのは、概念的なものではなく、亡者自らの心の内なる凶暴な性向に由来することがここに暗示されている。p.57
等活地獄、喧嘩の末に骨だけ残るの巻。獄卒に責め苦を受けるのではない。同じレベルの亡者同士が争うのが地獄の真理。
地獄で釜茹でにされている亡者は個性を有していない。一人ひとりの存在は消え去り材料(肉の塊)とみなされるのみだ。釜茹での刑罰はただ単に熱湯により身体的な苦痛が与えられるばかりではなく、「自己」であることの個性、自身のアイデンティティが溶解し消滅させられてしまうが故に、亡者たちに深く心理的な苦悩を負わせるのだ。p.66
人間鍋。自分がその材料だとしたら。
亡者たちは頭を下にして、足を上にされて、二千年もかかって落下していくと『往生要集』は言う。p.100
終わりに辿り着かないのが究極の地獄。
地獄の風景は、いたるところ私たちの心のうちで抑圧された欲動が変容し具現化されたものであった。p.111
地獄とは私たちの投影だった。
極楽の阿弥陀如来は「閻魔王を追い落として、極楽を地獄に移さん」とする計画/驚いた閻魔王は地獄までも仏が支配することなどあってはならないと反論。近頃の現実世界では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えさえすれば、人は皆、極楽に往生できるなどと宣伝し、悔い改めもせず悪行を犯す衆生が多い。地獄の存在意義が問われているとして、仏たちと一戦を交えることを決意。「仏鬼軍絵巻」p.203
皮肉が効いてむちゃくちゃ面白い絵巻。その後密教勢が加勢し、地獄は仏軍に征服される。なんかキン肉マンみたい。
浄土の維持費や仏の生活費も地獄の経費でまかなう取り決めができ、/近頃の現世では何事も簡略化されて、仏事等も軽く扱われることが多くなった。それゆえに、地獄でも倹約を実行。p.209
〈浄土の維持費を地獄が賄う〉これ、現実味あふれてないか。天保14年雑記。
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