サブカル大蔵経783梅棹忠夫『行為と妄想』(中公文庫)
学生時代の登山から、失明以降の震災すらも描く自伝。役に立たないから大木になった。という挿話を好んだ梅棹忠夫。その巨人は、日本を外世界から眺める神のよう。
当時の裏パキスタンのダッカから大本教本部まで一人で旅する探検性と、さまざまな組織で企画を通し、運営していく実務性。
弟がで実家のウメサオ書店を潰して、その残務処理をした記述が寂しげだったが、梅棹忠夫はこの頃から単なる学者ではなく、創造者として金銭と関わっていたのかも。
旭川から松山温泉をへて、トムラウシ山にのぼった。石狩源流をくだって層雲別にでた。そのあとオホーツク海岸にでて、鉄道のない砂浜を何日か歩いた。p.53
高校二年の時の探検部。ハードな行軍。トムラウシから層雲峡もすごいけど、オホーツクの砂浜歩きもすごいなあ。鉄道がないということは、枝幸のあたりか?
この仕事を始めたのは、ひとつには前年の東南アジアの学術調査でかなりの借金ができたので、それを返済するために原稿を書かなければならなかったからである。p.129
『日本探検』創作の経緯。借金と創作というのは、文化の裏テーマ。啄木や太宰、さだまさしや橋本治まで射程に入れると作品の背景の考察になりそう。
ジャーナリズムに近づく人間は、まるでアカデミズムからの失格者のようにさえ見られがちなのである。p.155
大宅壮一、司馬遼太郎らとの親交。学者とは、ニュースとは。
自分の見たこと、自分の頭でかんがえたこと以外はまったく問題にされず、ひとの説をかりて受け売りなどすれば、一座の冷笑をかった。p.165
京都市東一条角の京大人文研分館での週一の比較文明論の研究会。上山春平、梅原猛、角山栄、中尾佐助、林屋辰三郎。ここからさまざまな本の企画も生まれてそう。
批判もあった。「あいつらは足で学問をしようとしている。学問は足でするものではなく、頭でするものだ」というのである。この人たちは本を読んで、それを引用するのが学問と心えていたのであろう。p.166
ついて回る言説だが、双方ともすごい人はすごいし、半端な人は半端だと思う。
東一条の交差点の中央にトラックが横だおしになっていて、それが燃え上がっていた。p.187
母の実家が東一条なので、あの一角はタテカンに彩られていました。
アメリカの博物館でたいへん感心したのは友の会組織がよく発達していることだった。p.223
そこまで含めて文化となるのかも。
教育は人間を充電するものであり、文化は逆に放電作用である。したがって教育と文化は、エネルギーの方向が正反対になっている。p.252
文化と教育をわける。現在の危機を予見したかのよう。
日本文明とその歴史についての全体像を外国人に簡潔に説明する手頃な本がないことを嘆いていた。p.289
『日本文明77の鍵』。現在は文春新書に入っています。明治時代には岡倉天心が『茶の本』で試みた。
目ェなんか見えんでも、博物館はつづけて梅棹にやらせるべきや。(今西錦司)p.307
恩師にも励まされて、ここからの梅棹忠夫がすごかったという読後感でした。