サブカル大蔵経649ロマン優光『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』(コアマガジン新書)
マウンティングする。p.69
コミュニケーション至上主義の現代の中での〈マウンティング〉という醜悪さを言語化したこの本が出てから、芸人や一般社会でも〈マウンティング〉いうことばが使われるようになったと思います。それは、〈サブカル〉の醜悪さの本質さをえぐる言葉でありながら、そのサブカル性が政治や学校などの他分野にまで拡大していく現代論評にもなりえたからだと思います。
ロマン優光の批評的な文献学・書誌学の手法で俎上に上がったサブカルの先輩たち。サブカルチャーで育った者だからこそ、その神々の言説が逸脱していくことには耐えられないという想い。私には批評の姿を借りた愛情と感謝の本にも映りました。
今話題の萩尾望都の著作についても丁寧に粘り強く文章化してくれています。心なしかいつもより筆致が寂しげなような。私も今日一気に読み終えましたが、さまざまな想いがあふれています。
みうらさんは情報と戯れません。p.34
みうらじゅんは実はサブカル者ではないからこそ信頼に値する。
突然、自分たちこそがその「おたく」であったという不条理な事実を突きつけられた。p.60
宮崎勤事件のあの時の感覚と記憶。
ファッションサブカル。p.77
ファッションどころか、ビジネスか。
何組かを並べて受け手に考えさせます。p.115
吉田豪の菩薩道。判断を受け手に委ねさせるための献身さと退路を絶った公平さ。吉田豪が「ユリイカ」で特集されたり、全集が出たりした時、初めてその凄さが世間に伝わるのかもしれません。それが新しい仏典となると思います。吉田豪やロマン優光ほどの覚悟を持った僧侶がいるのか。
さくらももこサブカル、岡田あーみん異端p.138
『永沢君』や『ちびしかくちゃん』には恐怖と矜恃を感じましたし、あーみんの存在は、「りぼん」の壮大なバランス感覚か、または、少女漫画というジャンルを煎じ詰めた作品だったような気もします。
サブカルというものは広義の意味ではオタクの中の一種族にすぎない。p.178
オタクに包まれたサブカル者。
映画秘宝の権威化・硬直化p.182
特に本書では、「サブカル=町山智浩」という観点で進められていて、氏の功績と範囲を逸脱した言説に関しての批判がなされていますが、このコメントはその後を予測することになってしまいました。私は、大西祥平さんの連載終了が残念でした。大西さんこそロマンさんの文才を世に出した方でもありました。