サブカル大蔵経66橋本治『熱血シュークリーム 橋本治少年マンガ読本』(毎日新聞出版)
少女マンガを評論した『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』に衝撃を受けた学生時代から30年たって、橋本治の少年マンガ論が読める幸せ。。と思ってたら、これまた戦慄の書でした。
ちばてつやを手塚治虫を正面から論じる迫力。大友克洋・永井豪・高橋留美子に脱帽する感性。マンガ作品とマンガの環境・背景をたぐり寄せ、浮かび上がる本質。
ここまで論ぜられた漫画界がしあわせだと思う。ジャンプや劇画に全く触れないのが新鮮。今のわれわれは、ジャンプが王道だと錯覚してないか?
要するに少年マンガは、世界広しといえども、この日本にしか存在しないのだ。p.12
たしかに…。そして、それが日本の出版界を牽引した事実。
少年マンガと言うものを求める購買客が日本にしか存在しなかったと言う理由。p.31
少年マンガは、当たり前の存在ではなかったんだ…。
理念を持って子供を育てることのできる国民は、植民地経営もうまいと言うことである。子供は親の植民地であると言う現実に拠っているのだ。親は良かれと思って子供に文化を与えているのだから。p.41
まさかの、植民地概念まで…。イギリスと日本。
イギリス人は子供は固有の文化を持たないと言う見解に立つ。子供は未熟な大人であると言う見解。アメリカ人は子供は固有の文化を持っているけれどもそれは大人の文化とは全く別物であると言う見解に立つ。ウォルトディズニーと言う人はこの国民的合意の上にもとって漫画映画を産業化した。アメリカ人の大人と言うのは年がら年中童心に帰ることのできる特殊な人種なんだからである。この大人になっちゃう一線を前にしてモタモタしている子供もいる。それをティーンエイジャーと呼ぶ。成金国日本にはまず大人の文化なんていうものがない。日本の子供は少年マンガを読んでしまった。この少年漫画を持ってしまった日本こそ少年と言う、大人と子供をつなぐある特別な期間が重大な意味を持つのだ。p.44
うん、読んでしまったんです…。これは、特撮とかも当てはまるのかな?日本初のサブカルチャーの存在。
ちばてつやが少年マンガであり、少年マンガの限界が、これまたちばてつやの限界でもあると言うことなのだ。少年マンガの少年とは何か?答えは以上に尽きている。それは、本質的には少女とも大人とも境界を持たず、そしてなおかつ女との性的結合を拒否するものである。p.56
中二病の影響が始まる。
丈の回想は公園以前、15歳以前にさかのぼる事は無い。その答えは少年の中に隠されている。そのことを踏まえてみるとちばてつやの少年マンガはラストが全てどこかおかしい。全てが唐突に完結してしまうのだ。p.85
あの回想は、もう二度と出てこない。誰視点だったのだろう。
だから『あしたのジョー』は、「そんな街があるのをみなさんはごぞんじだろうか」と言う書き出しで始まったのだ。子供たちはそうした押し付けを受け入れることで自分たちがまだ知らない子供であることを認められ子供であることに安堵することができたのだ。そのことをおさえて、『あしたのジョー』は少年マンガでありえたのだ。p.96
ジョーと少年マンガのせめぎ合い…。ちばマンガ…。
力石ではなくカーロス。本当の友達が最終的には少年の前から消える。最後に現れるのは死んだ力石ではなく生きたカーロスであるのだから。p.100
ここまでリベラに焦点を当てた評論があったか?
少年矢吹丈は少年カーロス・リベラと闘いあわねばらず、少年カーロス・リベラは大人ホセ・メンドーサに倒されるものであり、少年矢吹丈は、大人ホセ・メンドーサを倒さなければならないものであるという図式。p.100
メンドーサが相手の理由…。
力石徹によって少年は少年になった。p.101
ジョーを少年とするための力石…。
リングは、少年の為のものだった。少年が打ちのめされる為のものだった。p.110
なぜジョーは打たれるのか。
それは、金龍飛がはっきりと病人だったからだ。丈は言う。金は食えなかったんだが、力石の場合は、自分の意志でのまなかった、食わなかった。p.129
金に勝った理由。ちばの最深部が出た試合。
何かを見ている、しかし、その実、決定的に何も見ていないという恐ろしい表情を、ちばてつやの登場人物達はいとも不用意にさらけ出してしまう。ちばてつやは、そういう絵を描くのだ。p.140
あの娘の顔のコマ、たしかに異様だった…!
永井豪がデビルマンを完結させた昭和48年の時点で、人類の歴史は終わってしまっているのである。p.232
すごいなぁ。そんな気がしてきた。
私は別に諸星ラムでもない。p.241
ラムの苗字…。
吾妻ひでおのスランプは、当たり前だと思うよ。だってあの人は、めぞん一刻を描かない高橋留美子なんだもの。p.246
吾妻と高橋留美子…。
奇子が土蔵から出ちゃうまでは、ほんとすごいね。p.253
村の閉鎖的因習の描き方…。
すべてのディテールは、膨大なる高橋留美子のリアリティーの中で、そういうのもあり!と言う形で、ちゃんと位置づけられてしまうのである。だから女は怖い。p.260
なぜ高橋留美子がすごいのか。島本和彦も、橋本治も、何を見抜いたのか。
ラムに、女としてのリアリティーが備わったとき、うる星やつらは終わるのである。p.261
ラムも響子さんも嫉妬を描いた。めぞんとうる星の違い。めぞんの迫力はここか。
うる星やつらを増殖させていく欠落の中心が諸星あたるp.261
その圧倒的な空虚をチェリーが不吉と言い続けた。
この間ランちゃんがうっかりと、ラムは悪気がないんや!なんて言う性格上の発見をしてしまったがために、そういうパーソナリティーが出来上がってしまったのである。出来上がってしまったと言うことから逆算して、なるほど、ラムにはパーソナリティーがなかったのか…彼女はうる星やつらの中でただ1人一般的人格だったんだなと言うようなことがわかってしまったのである。p.262
たしかに、ラムはパリパリしかなくなる…。
めぞん一刻が完結した時、それは夏目漱石を軽く超えているだろうと言う事だけは予感できるのである。p.262
この視点は単なるフラット化ではなく、物語を読み続けてきた人の見立てか。。