サブカル大蔵経998山田雅教『中世真宗の儀礼と空間』(法蔵館)
浄土真宗に関する本で、ずっとこういう本を読みたかった、待望の一冊。
葬儀だけでなく、私たちが日常お勤めしていることはいつから始まったことなのか。
当時の作法、儀礼、声明、荘厳、建築を通して、真宗の今が照射されていきます。
「談義」「放談」「改悔」、これらは祖師の面前で行われるのを基本としていた。祖師の没後は、それを再現する場が「御影堂」であったのである。これに対して「阿弥陀堂」は、仏法を聞けたよろこびを随喜の「念仏」という形で表現する場であった。p.173
本尊とは、念仏とは。
その本質に遡る一冊。
今の常識は、昔から当たり前にあるものではなくて、それは健全だと思いました。
先日紹介したグレゴリー・ショペンの真宗版というか、著者は史料や図象を博捜していきます。
思想は経典よりも儀礼にあらわれる。
真宗では、近代以降、儀礼を軽んじる傾向が一部に見られる。大村英昭氏によれば、その原因は次のようなことである。
①硬直した個人主義。②身体性③過程性④祝祭性⑤共同感性…が軽視されていると。(大村英昭「わが宗門と儀礼」(浄土真宗教学研究所『教学研究所紀要』三))p.4
私もずっと、読経や作法や衣や儀礼の細かい遵守には疑問を持っていました。親鸞聖人はこんなことを尊んでいたのか?と。
親鸞は「儀礼」を否定したのではなく、「自力の念仏」を否定したのである。p.7
一見、儀礼に否定的な親鸞聖人の歴史とスタンスを考察。
覚如は、尋有から覚思を経て伝えられた天台声明の流れに準拠しつつも、真宗として独自の儀礼を創案し、独自の声明観を表明している。p.12
親鸞聖人の弟、尋有。覚如の父、覚思。絡み合う血統と思想。天台と真宗のはざま。いや、ほぼ天台宗か。結縁のための儀礼。
行道を伴う礼讃が勤められ、それは時として「声明の宗匠」を招いて勤められることもあったらしいp.49
初期の本願寺。親鸞没後、儀礼化が始まる。礼讃と行道の歴史、古いんですね。
礼拝を解くのが早すぎては見苦しいから「しとしととおがみ、しづかにしづかにおがみたる」のが良いp.103
『作法』。これ読んでみたいです。蓮如の時代に決められていく作法。見られていることを意識した作法。
阿弥陀堂とは、その目的が追善であろうとなかろうと、「念仏三昧」の場であると意識されていたのではないか。そしてそのような場には、一般の参詣者は想定されなかったのではないだろうか。p.146
行としての念仏。道場としての山科本願寺。開かれていない本山。
ところが、その結縁に連なった人々が当該の阿弥陀像を礼拝しようという意識は、どうも希薄のようである。/中世の念仏者が思う「本尊」の感覚は、現代とはやや異なるものがある。p.152.170
阿弥陀像が必要のない時代。ある意味、偶像崇拝をしてない最先端のような。真宗のイスラム化というか。この時の方が完成形だったのでは?
本願寺は覚如以来、十字名号を重視していたようで、蓮如も初めはそれに則り、無碍光本尊を授与したのである。しかし、蓮如はその路線から変更して、六字名号へと移行していったのではなかったのか。p.225
新しい南無阿弥陀仏。木像、絵像、名号。実は当時から木像や絵像が主流だったと。
龍樹と天親は勢至菩薩の左右の斜め下に、あたかも勢至菩薩の脇侍であるかのように位置している。p.290
連坐像。役割キャラとしての印度七高僧。
以前訪れた茨城県の親鸞聖人のご旧跡寺院で、親鸞聖人と恵信尼の二人が同じ大きさで並ぶ連坐像の掛け軸を拝見しました。
初期真宗に見られる密教の影響と、親鸞自身の二河白道の譬喩に関する解釈のぶれを見た。p.337
釈迦弥陀二尊の定義。天台と密教の影響。曹洞宗も道元以降、密教の影響が大きいと読んだことがあります。鎌倉仏教教団は密教の力を借りて維持されたのでしょうか。密教こそ真の勝利者だったのでしょうか。修験道も絡むと一筋縄ではいかない歴史が浮かび上がりそうです。