サブカル大蔵経640田中正恭『プロ野球と鉄道』(交通新聞社新書)
昭和50年、山陽新幹線全線開業と広島カープ初優勝。外木場投手曰く「カープの優勝は山陽新幹線のおかげだと思っています。これがなかったら優勝できなかったんじゃないかそれぐらい移動が楽になりました。」p.139
帯に記載された内容の真相。
球団と鉄道移動の歴史を丹念に辿る名著。
さすが交通新聞社!と喝采したいです。
〈プロ野球と鉄道〉…。私の大好物がここまで直結した内容の本。著者の田中正恭さんに感謝。
さらに嬉しいのは、細かく時刻表を記載してくれるおかげで、一緒に選手たちと旅をしているような臨場感が高まるのです。
1942(昭和17)年には、太平洋戦争の最中と言うのに、初の北海道遠征が行われた。巨人軍、南海組、大洋軍、黒鷲軍の4球団で、6月13日に函館で、翌14日と15日に札幌でそれぞれ変則ダブルヘッダーを行っている。当時本州から北海道に行くのは現在とは全く比較にならないほどの苦行を強いられた。東京から来た巨人や大洋の選手たちと、大阪から来た南海の選手たちが、深夜の青森駅で出会い、同じ連絡船で北海道に向かったかもしれないと思うと、その光景を想像しただけで胸が高鳴ってくる。青森からは深夜0時30分出航の青函連絡船に乗り継ぎ、函館到着は早朝5時だった。翌日には札幌で試合が行われるので、この間の移動はかなりの強行軍だったと思われる。/函館16時22分発の根室行き急行の札幌到着は23時52分である。ただ、旅館代を浮かせるために函館23時15分発の稚内桟橋行きの急行列車に乗ったのではないかと推察する。この列車の札幌着は翌朝の7時48分であった。この遠征では南海が3連勝を飾っている。p.55
この一節だけで小説になるような。
貴重な東京スタジアム話。国鉄とロッテ。それぞれのカネヤンインタビューに感涙。
1878(明治11)年、新橋停車場内に日本初の野球場を作り、日本初の本格的野球チームとなる「新橋アスレチック倶楽部」を結成した。p.14
新橋に最初の球場と球団。まさに鉄道と野球は最初から結びついていたんですね。
阪神が反対側に寝返ってしまった。もし、阪神がそのまま毎日新聞などの加盟賛成派のままだったとしたら、阪急、南海、東急に新加入の近鉄と西鉄を加え、まさにパ・リーグは電鉄リーグになっていたのである。p.43
昔は、球団経営。今、ホテル経営か。
1940(昭和15)年の職業野球で特筆すべき事は、7月末から8月末にかけて、全9球団が海を越えて満州国に遠征し、リーグ戦72試合を行ったことである。p.53
本土対外地。満洲の意地が爆発。これも小説や漫画になる題材だと思います。
1964(昭和39)年東海道新幹線の開通。昭和40年から巨人の9連覇が始まった。遠征が大幅に楽になった事は間違いない。東海道新幹線の開業が巨人の9連覇達成の一助となったといっても過言ではないだろう。p.67
新幹線と優勝。私は学生時代、鈍行で全国をまわっていたので、新幹線の速さがたしかに別次元なのはわかります。
昭和後期になって、最も厳しい移動を強いられていたのは、昭和48年から5年間、流浪の球団と呼ばれたロッテオリオンズであろう。大前オリオンズは南千住駅または三ノ輪駅近くにあった荒川区の東京スタジアムを本拠地としていた。だが昭和47年に閉鎖され、本拠地を失う。昭和49年、宮城球場を本拠地とした。そんな遠征事情の中、昭和49年ロッテはパ・リーグを制し中日を倒し日本一に輝いている。最終戦が実施された宮城球場で金田監督の胴上げが行われ仙台市民大いに喜んだと言う。けれども日本シリーズは宮城球場ではなく東京の後楽園で行われた。開催基準を満たしていなかったのである。日本一のパレードは東京駅から行われたが仙台では何も行なわれなかったと言う。これには仙台のファンも落胆したことだろう。昭和53年川崎球場を本拠地とするにあたり流浪に終止符を打った。p.69・74
貴重なロッテ記事。流浪とロッテ。嬉しくて悲しくて。それゆえの愛着。
ファンから球団職員まで務めた横山健一さん曰く、東京から仙台へ向かう場合には上野を早朝に発車する常磐線経由の仙台行き普通列車もよく利用した。この列車上野5時55分に発車して仙台には13時55分に着く。この頃の土曜日の試合は午後3時からのダブルヘッダーが多かったので、この列車で行くとちょうど良いのだ。と。今は新幹線で1時間半、この列車は延々8時間もかけて走る超鈍足ランナーだった。p.73
普通列車を使って東京から仙台に通う情景。鉄道史・ロッテ史に残したい殿堂。
昭和37年5月3日常磐線三河島駅構内で多重衝突事故が起き、死者160名の大惨事となり、国鉄は世間から厳しい批判を浴び、経営が悪化し、プロ野球参入を目指していたフジサンケイグループと業務提携を結んだ。よく昭和38年東海道本線鶴見から新子安間で多重衝突事故が発生し、またもや死者161名の大惨事となった。球団では監督人事をめぐり(鉄道と産経側が対立。昭和38年に就任した林健一監督の指導力を疑問視する国鉄サイドは更迭を主張するが産経サイドは留任を決定。これに反発した金田が10年選手の特権を生かして新天地を求める、と言って退団し、巨人へ移籍してしまった。昭和40年5月10日、国鉄スワローズはサンケイスワローズへの改称を発表、15年余りの歴史に幕を閉じた。10月1日東海道新幹線が全通すると言う明るい話題があった影で国鉄スワローズはひっそりと姿を消した。p.114
国鉄スワローズ消滅と金田退団の原因がこの事件だったとは…。そこから参入したフジサンケイ、そしてヤクルトか…。
金田インタビュー。「3等車は椅子が硬いから、床に新聞を敷いて寝たほうが楽なんだよ。網棚の上に登って寝てる奴もいたなぁ。それと、長い包帯を持っていき、足をつるして寝たもんだ。そうすると足の疲れが取れるんだよ。/車内ではよく本を読んでいたよ。でも早くカミさんに会いたいなぁなんて思っていたなあ。その頃は一旦遠征に出ると何週間も戻れなかったからね。遠征の時は、行く先々の駅で歓迎会をしてくれた。国鉄は、国鉄一家の、自分たちのチームと言う意識があり、団結力が強かった。あの頃の国鉄の思い出は生涯忘れないね」p.228
弱小球団を捨てて巨人入りした印象の金田。でもこの文章には国鉄愛を感じます。だからこそ、国鉄内部の問題に嫌気がさしたのか。そこが現在のJRの体質につながっているような…。
仙台でロッテの監督をされていた頃の遠征も大変だったのでは?「いやあの頃はもう電車が近代化されていたからね。大した事はなかったよ」p.231
近代化!