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サブカル大蔵経453大井正/寺沢恒信『世界十五大哲学』(PHP文庫)

佐藤優さんが書いたのかと思うほどですが、こうした固い良書が復刊されるのは素晴らしいことだと思いました。まだまだ昔の名著はあるんだろうなと思いました。

【佐藤優 復刊によせて】私が哲学に関心を持ったのは、学習塾の国語教師の影響だった。小学校6年生の秋私は急性肝炎かかり、学校を3ヶ月休んだ。その時通った山田義塾。私が影響を受けた国語教師。モーパッサン、太宰、漱石、芥川、倉田百三、デカルト、パスカル、キルケゴールなどを読まされた。この授業を通じて、私は読書の面白さを知った。この時探して買った入門書が本書である。p.5

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兆民がエセ哲学者として批判した加藤弘之や井上哲次郎によって、哲学は人民の生活から切り離され、現実離れしたエセ学問に仕立て直される。それ以後の日本では、哲学は象牙の塔の奥でかび臭い本を読む者にとってのみの関心事になった。p.9

 ここでも井上哲次郎…。いろんなところでヒールになっているような…。逆に興味でてきました。

物事の根本へと遡って1番深い根底に達しそこから知識の体系を築き上げようとするのが哲学の基本的な傾向である。p.34

 発想より、職人的、建築的でしょうか。

その哲学者自身が哲学史の流れの中のどのような位置に置かれていたか。彼以前の哲学の発展からどのような問題と、どのような解決を成果として受け継ぎ、どのような問題を未解決のものとして課せられていたか。ということを知っていなければならない。p.80

 学生時代、恩師にも言われました。

宗教的世界観に挑戦するものは、けしからぬ人間として、抑圧され、社会から葬られるのが常だった。p.85

 哲学という命がけの行為

アウグスティヌスは新プラトン版の哲学でキリスト教を説明しようとした。だが神の絶対性を人間生活の反省から逆算して説明しようとするその仕方に、独自の特色を持っていた。p.105

 哲学とキリスト教。哲学分野ではキリスト教が最大の壁なのかな?

教父哲学の全体を通じて見られる共通の問題は知識と信仰との関係の問題であった。この問題をどう解決するかが、それぞれの教父たちの独自の思索に委ねられていたと言う限り、それは哲学であったと認められよう。だがしかし、その回答は常にキリスト教の信仰に反しないように与えられなければならなかったのであって、思索の自由はその限界内でのみ許された。p.106

 宗派の大学教授の講演の様相

アラブ哲学を通して輸入されたアリストテレスの哲学が、13世紀の初めにはまだ危険なものとして教会によって禁止される運命を持ったが、トマスによって積極的に採用され、キリスト教神学の体系付けに利用された、と言うことである。トマスは、理性と信仰とを区別しながら両者を対立させず、相補うものとして総合した。p.113

 逆輸入された存在のアリストテレス

20世紀の文献学は、主として文体の研究によって、プラトンの数多くの対話篇をその描かれた年代順に配列することに成功した。p.186

 20世紀のプラトン。これからの教え。

ソクラテスは、一般の人々が、今さら教えられなくてもわかりきっていると思っていた、正義・勇気・節度・敬虔と言うような「善さ」(アレテー.徳)について、そもそもそれは何であるかと問うた。こうして諸徳の根本原理としての魂の善さについての知識を求めることを、ソクラテスは、「自分自身を気遣うこと」とか「魂の世話をすること」とか呼んだ。p.198

 ソクラテスに東洋思想を感ずる…。

泥や汚物にまでイデアかあると認めることがあまりにも奇妙なことに思われるのは、イデア並びにエイドスという言葉が、形と言う意味を持っているからである。p.224

 イデアは印哲ならば色のルーパか?いや、違うか…。比較してみたら面白そう。

つまり、身体は道具であり、霊魂は目的である。身体の各部分は霊魂のそれぞれの働きのための道具である。p.258

 この感覚、現代的なのかも?

トマスは哲学の領域と神学の領域とは異なり、理性の真理と信仰の真理とが異なることを、ある程度まで認めた。だがトマスによれば、両者の間にあるのは、矛盾対立ではなくて、差異に過ぎない。p.276

 神学の登場。日本の仏教や哲学を宗派の大学でどう教えるか。キリスト教の歴史が参考になるのでは?

デカルトの頭蓋骨は盗まれ、1822年キュヴィエの手に渡り、パリ自然史博物館に寄贈された。p.298

 博物学のキーマン、出てきました。

すなわちそれは、中世キリスト教神学が全てを神から出発させたのに対して、「我」をー思考する人間の精神を、これだけは疑おうにも疑えない最後のものとしてあらゆる確実な認識の出発点とするものであるから、一面において革命的な要素を持っているp.310

 デカルトという存在は、画期なのか?

これまで見たようにディドロは、すべての事物は孤立してはおらず互いに転換し、互いに作用しあっている。p.359

 百科全書派、知の連環に縁起的思考。

フランス革命は、典型的なブルジョワ革命であったが、その革命的課題である平等と自由を、カントは、人間精神内部の問題として受け止め、そして人間精神の転換を企てた。p.368

 やはり、カントはブッダ的…?

兆民は結論した。「わが日本、いにしえよりいまに至るまで哲学なし」「すべての病根ここにあり」と。p.542

 そして、今の日本。

[理神論]神の存在を認め、神を世界の原因であるとするが、しかし、神を人格的存在とみなさず、したがってまた、奇跡をおこなうような気まぐれのものと認めず、神を極めて合理的に解釈し、世界は一旦創造された後は神の支配を離れてそれ自身の法則に従って運動する、と主張する。ニュートンは典型的な理神論者であった。p.632

 人格神ではない。

[倫理学]人間の道徳的行為に関する学問。善とは何かということの基準を、主観的なものの中に求めて、道徳的意識とか動機とかを重視する傾向の倫理学と、これを客観的なものに求めて、社会において成立している人間関係のうちに道徳の具体的な現れを見出し、その中から道徳の基準を確立しようとする傾向の倫理学とかがある。p.633

 個人のこころか社会の環境か。

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永江雅邦
本を買って読みます。

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