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サブカル大蔵経69渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書)

 渡辺京二の存在をみんな発見しているのだろうか?私もようやくこの一年で出会えました。熊本からまた強豪がリングに現れました。対談とかはされていないのかな?ひとりの説教者として、これからも法を説いてほしい。

 近代は、資本主義成立から始まった。煙草や砂糖を栽培するプランテーション農業が奴隷制と結びつくことによって環大西洋経済が成立し、それが最初の世界経済であり資本主義の成立。p.9

 奴隷制が資本主義の始まり、か。

 会津を攻める板垣退助が、領民が藩公の危機をよそに、会津藩が滅びようと滅びまいと、関わりはござんせん、という顔をしている様を見てショックを受けたという話が自由党史に。p.14

 昨日「麒麟が来る」で信長が尾張と摂津を国替えしてくれと言っていたのに驚いたが、「藩(土地)にこだわる」ことは当たり前なのか幻想なのか。

 左右・主義関係なく、エリート・リーダーは、民衆が自分の生活にばかりかまけて国家あるいは社会の大事に気づこうとしない能天気野郎に見える。p.17

 民衆という言葉、生活ということ。

 自分たちの生活領域に関わってこない限り、上の人たちがやってることは自分たちと関係がないと、徹底的に無視する。これは民衆世界が上級権力に左右されない自立性を持っていること。民衆世界の国家と関わりない自立性を撃滅したのが近代だった。p.23・24

 国と領域と、自立性。つまり、国の政治に関心を持つということが、実は国に自立性を奪われていったということか。

 市民的自由や民主主義という美名のもとに大衆が国家を論じ始めて以来、かえって民族浄化などの風潮が高まり、結局国民国家によって民衆が掌握される度合いを強化する結果p.29

 皮肉にも…。市民の危うさ。

 国家は幻想だと言えばらそれから簡単に解放されるとの気分になるのは錯覚です。幻想だからこそ厄介なのです。幻想というのは全て現実に出現の根拠を持っていますからすこぶる頑強なのです。私たちは風土と言葉によって人間となり個人となったのです。この風土と言葉が強く特殊性を帯びていますから、個人としての私に日本人と言う共同の網をかぶせてきます。p.49

 風土とわたし。それにかぶせてくる「日本人」いう「共同の網」。「共同」というのが、かなり今の「日本人」には手強い。網をかけられた「日本人」になってるんだな、私たちは。風土の記憶を忘れて。

 見方を変えれば、世界の経済化と言う事でもあります。p.66

 さらなる経済という共同の網。

 知識層は嫌々ながら西洋の近代モデルを受け入れたわけではなかったのです。むしろ彼らは人間の新しい可能性・文明の最も魅惑的なあり方を示すものとして、それを歓呼として迎えたのです。この事実を忘れてはならないのです。p.70

 たしかに。伝統というおもりを、嫌がるふりして嬉々と脱ぎ捨てた。

 フランス革命のどこに自由や人権の確立がありましょう。個人の自由と人権が全く無視されたのがフランス革命の特徴です。フランス革命は20世紀を特徴づけるジェノサイド大量虐殺言う点でも先駆的なのです。p.116

 フランス革命dis。やはり、自由、平等、革命、といった言葉の力。

 つまり近代的自由とは個人が所属するべき団体を失ったところに出現したわけです。今日の私たちから見ると前近代的自由、つまりある社団に属することによって得られる自由とは大変窮屈な束縛を代償としているように思います。しかしその社会は離脱の自由を制度的に保障する側面を持っておりました。今日とはまた性格の異なる独特なそれなりの自由が備わっていた。p.131

 共同体という束縛の中だからこその保護と自由がある生活。人権や憲法とは違う価値観。いまのタレントも事務所が束縛をする代わりに保護し、その中だからこそ自由。江戸時代もカースト制も階級制度もそうなのかな?

 新聞記者と一緒にタクシーに乗って、記者が運転手に〜までやってくれ、と言った物言いをするのに冷や汗が出るような思いをしたことがあります。これは明白な身分的不平等ではありますまいか。もともと平等と言うのがかなり過激な理念であることも明記すべきです。p.136

 生活においてすぐ言葉として浮かぶ根っこのところのマウント意識。

 環境保全と言う問題意識は、やっぱり人間本位の考えを出しておりません。人間が住めなくなるから困ると言うのでは、人間中心主義に変わりは無いのではないでしょうか。私は人間が人工空間を作ってその中で歓楽を尽くそうとする思考こそ経済成長至上主義、社会の全面的な経済化の最も悪しき、最も恐るべき帰結だと思うのです。p.152

 環境という言葉や概念の自分勝手さ。都合の良さ。

 山がそこにあるから登ったと言うのは詩人のペトラルカが初めてだそうです。つまり近代的登山の始まりです。村人は彼のもの好きに呆れたといいます。昔の人間は必要がなければ山なんて登らなかったのです。p.156

 異人・まれびと・観光者と地元民。

 ひとりの人間ってとても大事なものだけれど、人間と言う生物自体はそれほど偉いものじゃないと言うことを悟るのが案外大事なのではないかと思います。p.159

 個の膨張した現代での卓見。

 さまざまな網をかけられた中でしか身動きのできない私たち。それが呪われた、ということなのかもしれません。

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永江雅邦
本を買って読みます。