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サブカル大蔵経776内田樹『邪悪なのもの鎮め方』(文春文庫)

内田樹は〈専門〉を超えたところにあるから、どの専門家よりも頼りになると、本書で再認識しました。

人間社会は「真理」ではなく、「常識」の上に構築されるべきであると私は考えている。というのは、「常識的判断」は本来的に「自分がどうしてそう判断できるのかわからないことについての判断」だからである。p.167

魔に魅入られた時、理想ではない〈常識〉という落とし所に委ねる。日常かつ身体的に位置付ける。それを鍛錬というのかも。

この危うさが〈常識の手柄〉なのである。常識は「真理」を名乗ることができない。p.166

「理論的にも説明できないし、確信ももてない」からこそ、尊いのだと。会津藩の「ならぬことはならぬ」を想起しました。仏典の叡智もこういう集合知なのでは?

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「私が生き残ったことには、何か意味があるはずだ」と言う(自分でも信じていない)言葉を長い時間をかけて自分に信じさせることである。p.35

 「生き残った人間」にしかできないこと。それが葬送儀礼を行う理由。

「マニュアル」は存在しないが、その代わりに「物語」がある。p.51

 C級ゾンビ映画こそ経典。

どうして私だけしか知らない私のことを他人のあなたが知ってるんですか?というふうに世界各国の読者たちから言われるようになったら、作家も「世界レベル」である。p.74

 この作家こそ、仏陀でありイエスか。

おそらく読者は物語を読んだあとに、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して、「既視感」を自前で作り上げているのである。p.74

 村上春樹の中国での受容のされ方。物語が広範囲なのではなく、読者に自らの記憶を変換させる力を持つ物語。それが世界文学であり、神話、宗教なのかもしれない。

そして内田樹は、書き換えられる記憶の健康性を説いてくれたことがすごい。ブレていいし、ひとつでない私の変異性を提示。

私の書いているこの文章も例外ではない。批評性はつねに「呪い」に取り憑かれるリスクを負っている。p.89

 そして、私をなおざりにしない動き。客観的、批評的の裏側の自分の呪い。

以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。p.93

 こだわりやプライドがなさそうな人ほどプライドがある感じがします。自分も。昔恩師が「いじけてはいけませんよ」と私に告げてくれたこと、それはここを防いでくれたんだと今繋がりました。

「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。p.96

〈被害者〉という正しさの証明は一生ついて回る。

大学の瓦礫が片付いた頃にきれいな服を着て教員の仕事をするために現れた。p.122

神戸震災で被災して、とりあえず目の前のガラスの破片を拾っていた著者たちに「ばかばかしくてやってられない」と告げた人たちが、震災の研修会を企画してきた。自分も似たことをしてきたと思いました。

自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない。p.154

 敗戦後のアメリカと日本の関係。呪いをかけたことに気づかないアメリカ。呪いを解こうともがく日本。そもそもかけらていない呪いは解けない。

昔の男たちは「お稽古事」をよくした。p.191

 ここで失敗を経験できるから、本来の持ち場に余裕が生まれる、と。

家族の条件というのは〈家族の儀礼を守ること〉それだけである。それがクリアーできていれば、もうオッケーである。p.312

 あとはそれぞれ何をしてもいいから、これだけによって家族は成り立つ。その難しさ。逆に言えば、家族とは、これだけのことなのかもしれない。だから、大事だし、縛られすぎてもいけない。

「臨床的にみて邪悪なものの本質って何なんですか?」と尋ねられたんです。僕は発作的に、「世界を一色に塗りつぶそうとすることです」と答えました。p.335

 文庫解説での名越康文の言葉。アフガニスタン報道でこの言葉を噛み締めてます。

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永江雅邦
本を買って読みます。

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