見出し画像

サブカル大蔵経406原武史『線の思考』(新潮社)

 原武史が旭川を取材している!本屋で目次を立ち読みした時、思わず声を上げそうになりました。

 しかも、神居古潭、国見の碑、上川神社、新旭川駅、北鎮記念館、偕行社、川村カネトアイヌ記念館と、地元の私もほとんど行ったことがない所ばかりを訪問されている。新旭川駅にはちゃんと鉄道で、時刻まで添えて!

 宮脇俊三さんの唯一の後継者とも思える原武史さんの姿勢、光栄の極み。旭川の人必読。旭川の異様性と可能性が提言されています。

画像1

浦和や大宮は京都につながる中山道ではなく、東北の一部に組み込まれたのである。p.3

 新幹線の停車駅、仙台→大宮→上野か。昔、時刻表を見るといつも大宮が目に入っていた。北海道と埼玉が繋がっていたのは新幹線によってか…。

政治的なイデオロギーに結びつきやすい「ときわ」とは対照的に、「じょうばん」は明治以降の資本主義の発展という、経済につながる響きをもって立ち現れたのである。p.49

 旭川にも常磐(ときわ)公園があります。軍都の香りが公園の名前に。

駅前の温泉街ほど硫黄の匂いはせずまるで巨大な温水プールのような印象を受けた。独房のようなシングルルームで…p.64

 一人客を大事にしない、温泉の香りもしない、ハワイアンセンターへの提言。

ここから第三章・旭川編です。

師団線 旭川駅前〜七師団 14.1キロ 30分ヲ要シ 600ヨリ1130マデ5分毎に運転
一条線 曙〜八条北都前 6.1キロ 14分ヲ要シ
四条線 神楽通〜四条十七丁目 4.8キロ 12分ヲ要シ
運賃均一制 片道6銭 往復11銭p.71/
戦前の旭川は、北海道で随一の、そして全国でも有数の「路面電車王国」だったのである。p.72

 路面電車王国!夢ではない。旭川にその現実があったんだ…。しかも、駅から旭橋へは、5分置き…。

 神楽通など、今でも道路が妙に広いところは路面電車跡なんだなと感じるようになりました。

 祖母(101歳)に話を聞くと、旭正から追分まで電車によく乗ったが、運転手さんがカッコ良かったとのこと。農家の人にはいない感じだったので、ときめいたと。

しかしここが第七師団の建設予定地に近かったことから、師団の建設を請け負った大倉財閥の創始者大倉喜八郎(1837−1928)が、地価の高騰を当て込み、さらに道北の天塩地方にアイヌを隔離させようと画策する。p.76

 旭川と大倉組が繋がっていたとは…。

京都の保津峡や埼玉の長瀞に匹敵する景勝地である。しかし誰もいない。飛行機の機内で見た家族連れは、いったいどこに行ってしまったのか。p.80

 神居古潭再発見。タモリと原武史の両名に後押しいただいたのに、地元の動きは鈍い。かくいう私も子供の時以来行っていないのです…。あのSL車両懐かしい。

600メートルほど進んだところで山頂に達し、「国見の碑」が現れた。p.82

 ↓11月に私も初めて行ってみました。原武史先生、よくあの道歩いたなあと思いました。

画像2

画像3

画像4

北海道の国鉄全線に乗るため、初めて旭川を訪れた1978(昭和53)年8月の記憶がよみがえる。当時は高校一年生だったが、まるで池袋を思わせる巨大な西武百貨店に度肝を抜かれ、さすがは北海道第二の都市と感じ入ったものだ。p.85

 西武つながりで、まさか、旭川を池袋に比して…。望外の喜び、極まります。

その私が誓って言うが、この店の生ラムはこれまでに食べたことがないほど柔らかくおいしかった。p.86

「大黒屋」さんは間違いないですね。空港のラーメン食べられていたのはヒヤヒヤでしたが。あそこは改装されて無くなりました。叶うことなら旭川駅の立ち食いそばと焼きそばをご紹介したかった。

降りたのは私だけだった。/新旭川駅は、かつての第七師団に最も近い。駅前からは、新師団道路と呼ばれた広い道がまっすぐに延びている。p.87

 このくだり、最高です。新旭川駅に貼りたいくらい。旭川市文学館の方、ぜひお願いします。

「昭和11年には、昭和天皇が旭川を行幸され、第七師団を視察されております。」思わず口をはさんだ。「ここに展示されている年表には出てないけど、明治44年には皇太子時代の大正天皇が、また大正11年には皇太子時代の昭和天皇が旭川を訪れ、第七師団を視察しています。昭和11年の視察は、昭和天皇にとっては二回目の視察だったはずです。」p.89

 北鎮記念館の初代のご案内役はウチのご門徒さんでした。ちょうど新しい方に入れ替わったところだったんだなぁ…。

天皇はこのバルコニーに立ちながら提灯行列を眺めたのだろう。闇世の中で浮かび上がる二万もの灯火。それは「軍都」旭川が最も輝いた瞬間でもあった。p.93

↓このバルコニーから見える風景は、今は公園になっています。沿道にトラックの運転手が車停めて昼寝してました。

画像5

アイヌの人々からすれば、それは勝者であり征服者である東京中心の国家が作った博物館でしかないのではなかろうか。川村カ子トの名を冠する記念館は、どれほど小さくてもアイヌ自身によるものだ。p.98

 ウポポイの怪しさを喝破してくれました。さすが原先生…!

明治以降の国民国家の歴史が相対化され、アイヌゆかりの場所がかつてのエキゾチシズムとは違う形で注目されるようになれば、旭川は札幌に従属するだけの都市ではなくなる。そればかりか、東京という磁力からも解放される。もはや「軍都」に戻ることができない旭川の将来は、この視点を確立させられるか否かにかかっていると言っても過言ではあるまい。p.98

 川村カネト記念館の独立性を評価してくれています。慧眼によるこの言葉を刻みたい。札幌、道、国への従属からの…と思っていたら、コロナ禍で日本初の自衛隊への出動願い。旭川という街の成り立ちの因縁すら感じました。

房総三浦環状線と日蓮の関係は、実に深いのである。p.158

 フェリーを使って横浜と千葉の横断。このライン、テレ東のひるめし番組で、戦場カメラマンの渡部陽一さんが訪れていました。すごく新鮮な交通路でした。ある意味日蓮聖人ルートだったんですね…。

ここには「裏」の山陽があると言える。p.161

 山陽新幹線では降りられない駅たち。私も昔、赤穂線、山陽本線、呉線を廻り、山陽を堪能しました。笠岡のカブトガニとか。たしか、金光駅のホームには〈金〉のマークが飾られていたような記憶が…。

金光教では、参拝した個々の信者に向かって教主が言葉を述べることを、「取次」という。そのほとんどは私的な相談に対する返事のようだ。p.170

 地元の金光教教会に若手僧侶の仲間たちとお話を伺いに行ったことがあります。一日ずっと本堂にいて、相談者の対応をされているというお話が印象深く、寺の坊さんで一日中本堂にいる人いるか?と思わされました。〈取次〉と言うんですね…。

山陽本線の隣り合う駅の近くで、大正から昭和にかけてよく似た「不敬」思想が育まれたという事実。p.186

 岡山の力。ぼっけえきょうてえなあ。

駅に近い伊万里グランドホテルに荷物を預けてから、市内の焼肉店に向かう。p.237

 伊万里のダブル駅舎の描写の後、泊まって伊万里牛かぁ。本書はサブタイトルが〈鉄道と宗教と天皇と〉という名の通り、かなりの問題作というか刺激作ですが、グルメ描写も楽しいです。

いいなと思ったら応援しよう!

永江雅邦
本を買って読みます。

この記事が参加している募集