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サブカル大蔵経745『長崎市長への七三〇〇通の手紙』(径書房)
あけましておめでとうございます。。「天皇に戦争責任はある」といった市長さんはえらい。。わたしもそう思います。まあいろいろあるけれど「何があっても国民から信頼される市長さん」が一番です。くじけないでがんばってください。わたしもおうえんします。(長崎県山下聖子12歳)p.125
12歳。
市長さん、こんにちは、僕は市長さんに言いたくて書きました。市長さんは「天皇にも戦争責任がある」と言いましたね。僕はまったくその通りだと思います。なぜなら「あの時は、軍部に操られていたんだ」といいますが、中国人などをあんなに残虐に殺して何も言わない天皇だっておかしいと思います。(宮崎県 谷川尚之 15歳)p.28
15歳。
本島さんは何て光っているのでしょう。(京都府 岡角麻子 18歳)p.65
18歳。
この若い人たちは、どうしてこの手紙を書いたのだろう。歴史の勉強か、本島市長いじめに対する義憤か、直感か。
終戦直後、マッカーサー元帥に、感謝や要望の手紙が殺到したことは、袖井林二郎さんの著書で本欄でも読みました。
それから50年の昭和の末尾。
日本史上最も天皇を巡る声が届いた。
その経緯と恐ろしさ。
たぶん市長自身が一番驚いたであろう。
本書は『憲法を生きる人びと』の最終章で紹介されていました。
本書を出版するまでの経緯に感動して、購入しました。
本書には、割合的には5%しかなかったという市長への批判の手紙も、両論併記という観点から、きちんと掲載されています。
陛下に責任をとってもらおうというのは、国民の責任のがれではないでしょうか。(岐阜県橋本秀雄41歳)p.12
陛下のお力をもってしても、軍の暴走をくい止めきれなかったのは周知の事実。(静岡県川上すみゑ28歳)p.16
「死長」「貴様死ね」p.35
市長自身の言葉も取り上げられています。
「決して勇気ある発言ではない。言論の自由が守られている社会であれば、ニュースになる問題ではない。」(ニューヨークタイムズのインタビュー1988.12.26)p.68
「この100年のうち、4分の1が戦争だった。いつの戦争でも長崎は大きな影響受け、また与えてきた。私も戦争に行き、戦争にこだわりを持ち続けてきた。議会での発言でご迷惑をかけたと思っているが、平和は黙ってそこにあるのではなく、日々の生活に根ざした努力が大切。平和こそ子孫に残す唯一の財産でなければならない。」(事務所始め挨拶1989.1.3)p.108
〈1月7日天皇逝去〉
「言論の自由は守られねばならない。」(小渕官房長官1989.2.10)p.109
平成おじさん、小渕さん、偉いなあ。
「私は日本軍の捕虜でした。市長様、あなたは勇敢な兵士です。」(オランダE・ホーエン)p.146
貴重な捕虜視点。
「本島市長は変質されたようだ。こういうことになって残念だ」「今になり身勝手」「良い加減な人間でしたね。妨害が怖くなって出版のストップをかけてきた。」p.158
本書の出版を土壇場で市長がストップかけた途端の、この一連の手紙が一番恐ろしかった。崇めた人を手のひら返し。内ゲバ体質。
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