サブカル大蔵経159 ノーマン・イングランド監修 『別冊映画秘宝決定版ゾンビ究極読本』(洋泉社)
映画の世界から始まったゾンビ。いにしえの名作から時が経っても、ゾンビは生き続け、ひとつのジャンルとなっています。
大ヒット映画「カメラを止めるな!」がゾンビものだったのは象徴的で、ゾンビが主題ではなく、フォーマットとなっていました。それくらいゾンビという概念は市民権を得たと言えると思います。
私が読んできた漫画作品でもゾンビものはゾンビのように甦って途切れることはありませんでした。
『アイアムアヒーロー』
『魔法少女オブジエンド』
『Z』
『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も広義的にはゾンビだと思います。
アニメ「ゾンビランドサガ」にもはまり、昨年佐賀を巡礼してきました。
ゾンビはなぜ途切れないのか。〈ゾンビ〉は何かを暗喩・予測しているのだろうかと、ずっと考えていました。
人が、人ならざるものに変わり、襲ったり襲われて、死んで終わりではなく、死なずに増殖していくという物語。
徘徊する老人たちか、千鳥足のサラリーマンか、実験や品種改良で増え続けた動物か、骨すら拾われない無縁社会か。
他人事だと思っていたら、それはいつしか自分自身のことなんだと思います。
で、なんとなく途切れたかな、と思ってたところ、今年、ゾンビが現実の世界になってしまいました。
今回のコロナウィルスで象徴的なことは、〈自覚がなくて〉〈うつる〉ということでしょう。ゾンビは自分がゾンビだとはわかっていません。無意識の生体です。ただゆっくりと歩いて人を襲う。相手をゾンビにしようとは思っていない。なのに、結果的に噛まれた人はゾンビとなり増殖していく。まさに今の状況そのものです。
本書は、スクリーンでのゾンビをここまでやるかというくらいに研究した本です。私がロメロの「ゾンビ」を観たのはテレビです。正月の昼間に放映されていました。合間に何度も入る渡哲也の松竹梅のCMが印象深く、今でもトラウマになっています。
ぼくがそういった映画を撮るとしたら、ゾンビはただのホームレスみたいになっている。そう、世界はゾンビて溢れ返ってるのに、人々は普通に暮らし続けているんだ。(中略)みんな対策は講じるが、誰ひとりとしてゾンビ禍を本気で解決しようとはしない。ゾンビはそこにいるのに無視を決め込んでいる。それが90年代だ。(ロメロ)p.97
何か今のウイズコロナ状態でしょうか。
プエルトリコ人たちに差別感情むき出しで発砲するウーリー。ゾンビとエスパニックの区別がつかないヤバい奴。「クソッ、俺の家よりいいぜ!」ウーリーが自らの常軌を逸した憎悪の対象としている人々よりも、自分自身はさらに惨めな環境に暮らしていると事実を自覚させることによって、ロメロはこの憎しみに満ちた軽蔑すべき男の中に、自己嫌悪と言う感情を吹き込んだ。つまりゾンビが今なお持つ凄みは、映画における対立が富めるものと貧しい者の間にあるのではなく、貧しい者とさらに貧しい者の間で戦われていることを表現し尽くしていたことにある。ロメロはアメリカの真の悲劇を見事に描いた!(スクーター・マックレイ)p.161
社会をあぶり出す〈ゾンビ〉
ゾンビの起源は、黒人を生き返らせて奴隷にする、中米ハイチの民間伝承だった!p.175
私が卒論で読んだ作品がインド説話文学の『屍鬼二十五話』というインドのゾンビの話でした。屍鬼は最初悪者の存在だったのですが、最後に寝返って王子様を助ける展開だったと思います。
ゾンビは人間にとって、生者にとって、善悪どちらなのかまだわかりません。私はもうゾンビになっているのかもしれません。