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末日聖徒のための聖書学シリーズを始めようと思う話

たぶんに日本の若い末日聖徒にとって役に立つと思うので、「末日聖徒のための聖書学」なるシリーズをちょいちょい書いていこうと思います。

といっても、しょせん私は大学院に行っていないアマチュアで、学部でも真面目に勉強しなかったクチなので間違いなど多いと思いますので、ばしばし指摘をおねがいしたいです。

そもそもなぜこんなシリーズをするのか

⑴現代のわたしたちにとって有益な方法で聖文を理解し応用するため
⑵キリスト教諸宗派や他宗教の人をより深く理解し、彼らと協力するため
⑶ふつうにめちゃくちゃおもろいから

メインストリームのキリスト教の信徒と話すときや、宗教についての学問的な議論に出会った時に、「あれ、なにか話がかみ合わない」と感じたことがいつつかあった。

そういった場合は、そもそも議論をするための前提知識が足りていないことが多い。相手がどのような意味で言葉を使っているのか、下敷きになっている理論はなんなのか、それがわからず話しているとすぐ迷子になる。これはあくまでも個人的な感覚だが、末日聖徒のなかには、その強固な宗教観に凝り固まってしまって、末日聖徒以外の人々がどのように神や宗教について考えているのかに疎い人が多い気がする。特に日本の末日聖徒、さらに言えば二世に多い気がする。

おそらく、それは回復という私たちの美しく素晴らしい教義の負の側面なのだろうと思う。回復された主の教会なので、「不完全」な他の宗教や宗教者について知る必要はない、と無意識に考えてしまっているのではないか。

しかしながら、回復それ自体も、その背後の文脈から逃れることはできなかった。ジョセフ・スミスが神に願い求めようと思ったのも、第二次覚醒という歴史的文脈においてだった。どんな人間も、その時代特有の歴史的な流れや、その時代・その場所特有の思想の影響を受け、それを当然のこととして無意識のうちに受け入れてしまっているのである。

学問を学ぶことの意義の一つは、この時代の潮流を客観視し、なにが本質かを見抜くことである。聖書学や宗教史を学ぶ意義も同様である。われわれが無意識のうちに積み重ねてきた憶測・仮定(assumptions)を教義と混同するとき、それは信仰生活のうえで大変な重荷になりうる。それこそ、「先祖の言い伝え」であり、パリサイ人が人々に負わせた重荷である。それらの憶測を学問の力によって疑うときに、より本質的でシンプルな信仰が浮かび上がってくるのである。

どんなシリーズになるのか

末日聖徒の信仰で、青少年などが疑問に思いそうなポイントを中心に切り込んでいくのが良いかと思っている。たとえば、創造論や進化と聖書研究、第二・第三イザヤ(モルモン書への反論に使われやすい)、文章仮説、ヤハウェの起源なんかは、大変面白いし、欠かせないと思う。

また、気を付けたいのは単に聖書学の成果を投げつけて、まじめな末日聖徒の信仰をぶっ潰したりしないようにすることだ。それが末日聖徒にとってどのようなプラスの意味をもつのかを毎回表しながら書ければいいと思う。

といっても、私が書いていることなんてn番煎じでしかないので、英語ができる末日聖徒なら「あ~、これ、〇〇でよんだなあ」とか、「〇〇がFair Conferenceでこんな発表してたなぁ。」みたいなレベルなので、いろいろご容赦ください…笑


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