見出し画像

私の思い出の一曲 小中学校の頃

小学生の頃は、百恵ちゃんやキャンディーズ、西城秀樹や郷ひろみなど、色んな歌を歌ってきましたが、特に好きな人がいるわけでもなく、過ごしてきた。
しかし、その後、私が、いえ日本中の子供たちが夢中になったのが、ピンクレディでした。

ペッパー警部に始まって、S・O・S、カルメン‘77からの渚のシンドバット。それから、私が大好きで一番踊ったウォンテッド。そして1番のヒット曲のUFO。その後もサウスポー、モンスター、透明人間、カメレオン・アーミー。
みんなが歌って踊って、熱狂しました。
特に、静岡出身と言うことで、地元でこんなスターが出たことが、誇らしかった。

しかし、そんなピンク・タイフーンも、次第に過ぎ去っていく。

3年B組金八先生の放送。
トシちゃん、マッチ、よっちゃんの「たのきんトリオ」の出現だ。
誰派? などと言うのが当時のあいさつ代わりになっていた。
そして私はマッチ派。
ただ、三人の中でマッチ、というのではなく、初めて芸能人を、熱烈に好きになりました。

部屋にポスターを張りまくり、雑誌の切り抜きを集め、初めてレコードを購入し、当時の日記は、マッチに宛てたお手紙になっていました。

「スニーカーぶる~す」でデビューする前から好きで、デビューを待ちかねていて、ヨコハマ・チークの曲は特に好きでした。
たのきんトリオ3人が出演した映画、ブルージーンズメモリー。(主題歌も同じ名前)
友達と映画に行く、というのも初めての体験でした。

それから、初期の頃のマッチの曲と言えば、「ギンギラギンにさりげなく」
このころのマッチの勢いはすごかったですね。
それから「情熱熱風せれなーで」や、「ふられてバンザイ」
マッチ主演の映画、ハイティーン・ブギは、映画も曲も最高でした。

しかし、私のマッチ熱は1年半で覚める。
厳しかった母によって、ポスターを全部外され、マッチ禁止令が出たのです。私は泣く泣くマッチに別れを告げ、部活にのめり込んでいきました。

ところで、このころの音楽番組で、これだけは欠かさず見ていたのが、
『ザ・ベストテン』
毎週木曜日の21:00 からTBS系列で生放送されていた音楽番組。
これを見ないと、学校で友達とのおしゃべりや、音楽情報についていけなかった。
当時は昭和のアイドルが、次から次に出てきたし、アイドルだけでなく、実力派や演歌歌手も出てきた。
1978年(昭和53年)1月から1989年(平成元年)9月までという長い期間やっていたので、見たことある人も多いと思います。
毎週のランキングや、生放送ならではのドタバタ、電車に乗りながら、移動中、様々な場所での中継も、面白かった。
松田聖子や、中森明菜なども、その頃デビューして、大人気でした。

一方その頃姉は、ベイ・シティ・ローラーズにはまっていた。
ベイ・シティ・ローラーズは、イギリス・スコットランドのエディンバラ出身のポップ・ロック・バンドです。
彼らがチェックの服を着ていたからか、当時タータンチェックの服も大流行しました。
姉もあちこちにポスターを貼って、一日中音楽を流していたけれど、
英語の勉強になると思ってか、母は
怒りもしないし、反対もしなかった。
いつもいつも姉が聞いているので、自然に私も覚えた。
ベイ・シティ・ローラーズといえば、サタデーナイト。
エス エイ ティーユーアール ディーエイワイ ナイト‼♪
と歌って、Saturdayのスペルを覚えました。

また、姉はその後若干沈みがちになり、中島みゆきやオフコースを聞くようになった。
中島みゆきの、ひとり上手、悪女、化粧、などは私もよく歌っていました。

さて、様々な曲をたくさん聞いて歌ってきたこの時期ですが、一番たくさん歌った思い出の曲は

万里の河(チャゲ&飛鳥 1980年)と眠れぬ夜(オフコースの曲を西城秀樹がカバー 1980年)です。

登下校時、友達と一緒にこの二曲を交互に延々リピートで、毎日歌って帰った。
おそらく人生で一番何度も歌った曲だと思う。
いまだに歌える。

思い出の一曲、ではなく2曲だけれど、このころの曲と言えば、やはりこれだな、と思いました。

このころ皆さんは、どんな曲を一番歌いましたか?


サムネ画像
ピンクレディ描いてみた 笑


遠く遠く どこまでも遠く 
流れる河で
暮れかかる空にあなた想い
今日も待っています…
      (万里の河より)


いいなと思ったら応援しよう!