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浜松でどうする?【後編】

浜松城を出た私たちは、「家康の散歩道」というパンフレットを手に、市内を散歩することにいたしました。

しかし、散歩といっても、それなりの距離でしたけど…

まずは浜松城の駐車場の道を挟んで向かい側にある、元城町東照宮へ。

これが、「元城町」の地名でわかるように、昨日の記事で書いた、今の浜松城の前の浜松城。
そして、それはイコール引間ひくま(曳馬)城跡です。

大河ドラマ「どうする家康」を見ている方は、瀬名の幼馴染のお田鶴たづの方(今川方)が、おんな城主として曳馬城を守っていたが、家康に攻め込まれ、降伏せずに討って出て、討死するという悲しいシーンを覚えている人もいると思います。

「ひくま」というのが、馬を引く→負け戦
となり縁起が悪いということで、この城は「浜松城」に改名されました。

今の地に浜松城が建つまでは、この城が使われていて、三方ヶ原の戦いの頃は、まだこちらの城だったようです。

その後、現在の地に浜松城が立ってからは、米倉として使われて、明治になって東照宮が建てられました。

現在の建物は、昭和35年に建てられたとのこと。

早速お参り。
上の部分の龍の彫刻が、素晴らしかった。


社殿の横に回ると、回廊の突き当たりの方に、不思議な絵があった。

滝に打たれてる獅子?
岩の上にいる獅子?人の顔にも見える

この絵が何を意味しているのかは、わからなかった。
わかる方いますか?

そして社殿の後ろ側にあった木

何の木だろう…
大きな木だった。

また、敷地内にはこのような像がありました。

家康はわかるけど、何で子供の秀吉?
これは、この説明文でわかりました。

実は秀吉は、16歳の時に、この曳馬城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけになったとのこと。
家康がこの城で、天下への足がかりを作って行っただけでなく、秀吉の武士となるスタート地点という意味でも、浜松城は出世城と言われるようです。

ここでは、東照宮の御朱印はいただけましたが、曳馬状態の御城印があるお店?みたいなところは、休業日と書いていて、もらえませんでした。

土曜日だよ?
前の広場ではイベントやってるよ?
開けようよ…

元城町東照宮の御朱印

この後は、遠州鉄道の方に歩いて行くと、街の一角に椿姫観音がありました。

これは、先ほども出てきました、曳馬城で討死したお田鶴たづの方とその侍女達の供養のために作られた観音堂です。

お田鶴は、瀬名の幼馴染で、今川屋敷にいた頃から、家康とも面識がある。
瀬名は、お田鶴を助けたくて、家康に懇願し、家康も降伏を促したが、父親である鵜殿長持うどのながもちも、家康に討たれており、降伏を受け入れずに最後まで果敢に戦った。

家康公は、お田鶴の方とその次女達の亡骸を、この地に手厚く葬り、塚を築き祠を建て、瀬名(築山御前)が、その塚の周りに、お田鶴が好きだった100本余りの椿を植えて、供養したので、椿塚、椿姫と呼ばれるようになったそうです。
その為このお堂も、椿姫観音堂と呼ぶようになったということです。

今は椿が1本あるだけで、塚にもなっていません。ちょっと残念。

さてそれからは、浜松八幡宮に行きました。

松並木の参道。
右側の松の幹が、折れ曲がったような不思議な形をしています。

八幡宮の石鳥居

八幡宮につきました。
左側の石碑には、
「天然記念物 雲立ちの楠」
とあります。

ここは、三方原の戦いで敗走してきた家康が、この木の洞に身を隠したという楠があります。

家康が、この洞に身を隠していたところ、突然雲が立ち上がり、神霊が白馬に跨って浜松城へ飛び立ったということから、雲立ちの楠と言われるそうです。

見事な楠です。

実はこの楠、1051年には、八幡太郎(源)義家がこの宮に立ち寄った際、樹下に旗を立てたことから、「御旗楠みはたのくす」と言われていたそうです。

その頃すでにそれなりの大樹だったのでしょう。

反対側から見ると、大きさがわかります。
今は洞が広がりすぎて、離れているように見えます。

では、お参りを!

家康公は、武家の守護神、浜松城鬼門鎮守、開運招福、武運長久などを祈って、度々参拝したそうです。

私も、開運招福をお祈りしました。

こちらでも、御朱印をいただきました。
最近はどこも、紙の御朱印ばかりで、御朱印帳に書いていただけないのが残念です。

境内の脇の方を見ると、赤い鳥居がたくさん

これは、浜松稲荷神社。
七五三の撮影をしていました。
6年ほど前に来た時は、この辺りでリスを見かけました。
この日はいなかったけれど…もういなくなっちゃったのかな?

散歩というより、結構なウォーキング。
だいぶ疲れてきました。

この後は、帰り道の、徳川秀忠公誕生の井戸を見て、浜松城前に戻りました。

遠鉄 遠州病院駅の入り口近くにありました。

秀忠は、徳川2代将軍で、西郷の局(於愛の方)が産んだ子です。
浜松で生まれた唯一の天下人です。

浜松城前に戻ってきて、イベントで賑やかな浜松出世パークを通り抜けて駐車場に向かおうとすると、夏目広次のうちわを持った人が大勢。

この日は、夏目広次役の甲本雅裕さんのトークショーがあったようです。

それでこのうちわ、配っていたんですね。
ちょっと見てみたかった。
でも何時からなのか、終わったのかまだなのかわからず、先を急ぐので、そのまま帰りました。
しっかりうちわは、いただきましたけど…

私がステージを見た時は、浜松徳川武将隊が、太鼓をやっていました。
(実はこの20分後くらいからだったみたい。
後から知りました。ちょっと残念)

うちわの裏側は

こうなっていて、ドラマでの夏目広次の最後のシーンを思い出して、又泣けてきました。

家康からなかなか名前を覚えてもらえない広次。コントかと思っていたのですが…

家康らを逃がすために、家康の身代わりとして、家康の鎧を身につけた広次。
この時になって家康は、広次が子どもの頃よく世話をしてくれた大好きな「吉信」だったことに気付く。

実は吉信は、幼い頃に織田勢にさらわれた家康を守れなかったことを恥じて「広次」と改名していたのでした。

(だから、違和感で名前を覚えられなかったのか!)

広次は子どもの時のように
「殿は、きっと大丈夫」
とほほえんで戦さ場に出て行く。
その後、家康と思われ討ち取られたのです。
涙涙涙…

こうして、広次の団扇を手に、浜松を後にした私たち。
この日は、もう1ヶ所、寄ってから帰りました。

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