暁のトンボ (前編)
男は、漆黒の海上を滑るように走る船の甲板に立っていた。
振り返っても、もう陸地の明かりは見えない。
もう二度と生まれ育った土地の土を踏むことはないであろう。
そう思いつつも、生きてまた家族の元に戻りたい。
言葉にしてはいけない想いが込み上げる。
出航してしばらくは、甲板で陸地を見ていた船員たちの姿も今はない。
数日前、活気に満ちた宇品の港で、見送りに来た妻トキ子に別れを告げた。
その後船は瀬戸内海を進み門司を経て、日本を離れた。
トキ子は、弱気な態度は一切見せず、男の健康を気遣い、笑顔で見送った。
あの時、宇品の港付近には、赤とんぼがたくさん飛んでいた。
暁部隊と言われていた彼らは、その港で見られる赤とんぼを暁トンボと呼んでいた。
男は、暁トンボのなかにたたずむ妻の姿を脳裏に浮かべ、目を閉じた。
子供たちを頼んだ。 どうか無事でいてくれ。
その男の名は幹治、静岡の片田舎にある農家の三男として生まれた。
三男であるから、将来家を出ていかなければならない。
幹治は、寺子屋に通って勉学に励み、船員学校に行き、大阪商船の機関長を目指した。
上司であった機関長は、幹治の勉強熱心で真面目なところを気に入り、自分の娘トキ子の婿にした。幹治はトキ子と結婚し、その後跡を継いでその船の機関長になった。
育った家とは全く異なる裕福な暮らしをし、二人の息子と三人の娘に恵まれ、充実した日々であった。
当時幹治は、大阪から瀬戸内の島々や九州まで人や物を運ぶ大阪商船別府航路の運航をしていた。
笑顔や笑い声が聞こえ、豊かな物資が乗せられた船は、幸せそのもので、幹治はその船を動かしていることが誇りであった。
1941年、上司であり、恩人でもあった義理の父が無くなり、その一か月後に次女を亡くすという悲しい出来事はあったけれど、幹治の人生は順風満帆であったといえるであろう。
大阪天保山で積み荷や乗客を降ろし、八幡桟橋に船が戻ってくると、幼いわんぱくな二人の息子が待っていて、船に乗り込んできた。
息子たちにとって、船は、大きな遊び場であり、船内のベッドに横になったり、美味しいものを食べさせてもらったり、時には散髪してもらったりと、いつも父親の船が戻ってくるのを楽しみにしていた。
船員たちも、機関長の元気な子供たちをとてもかわいがった。
幹治は子供達には厳しい父親だったが、船員たちが子供をかわいがってくれているのを、見て見ぬふりをしていた。
船を好きになって、ゆくゆくは自分の跡を継いでくれることたらいいとも思っていたからだ。
しかし、そんな風景も今は昔。
この船が、行く先は戦場である。
幹治の船は、戦争が始まったのち、徴用船となり日本からフィリピンに物資や軍を運ぶことになった。
前回は、無事に日本に帰ってくることができたが、戦況が悪化しているのは明らかだ。
いつ敵艦が来て沈められるかわからない。
しかし、その船を待つ人がいる限り、その船で行く人、運ぶものがある限り、向かわなければならない。
これが、幹治の国家に尽くす忠誠であった。
今回船出の前に、一時帰宅を許された。
そこには、その年の五月に生まれた四女がいた。
自分は、この子の顔を見ることができた。しかし、この子は私の顔など覚えているわけはない。そう思うと、たまらなくいとしく感じた。
日本国内は、日本軍の活躍ばかりが報道されていたが、先のミッドウェイ海戦での空母撃沈や、米軍のガダルカナル島上陸など、明らかに日本は劣勢になりつつある。
まもなく本土空襲が始まることは、避けられないだろう。家族が住む大阪市内も、間違いなく空襲される。
幹治は家族を自分の実家がある静岡に疎開させるよう、トキ子に言い残した。
幼い息子達は、家の近くの駅まで見送りに来た。長男は、おばあちゃんやお母さん、兄弟たちを守るのだぞ、という幹治の言葉を神妙に聞いていたが、次男は、又すぐ会えるかのように、無邪気に手を振った。
家族の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消える。
私がいなくなったら、トキ子は五人の子供と高齢の母を抱えて、たいそう困るであろう。
しかし、私たちが日本を、家族を守らなければならない。
幹治は、唇を噛み締め、拳を強く握ると、船内に戻った。
船は静かに漆黒の海を進む。
目指すはフィリピンだ。
船はフィリピンの数か所の港を回り、最後にある港に入ろうとしていた。
船の生活に慣れているとはいえ、やはり早く陸地に足をつけたいという気持ちが高まる。
その時だった。
突如サイレンの音が響いた。
敵機襲来!
雨のように砲弾が飛んできて、船の甲板を破壊していく。
幹治の船は輸送船なので、迎え撃つ装備も備わっていない。
砲弾を避け必死で逃げ、なんとか逃げ延びた。
ほっとした途端に、左足に激痛を感じた。
そこには、折れた甲板の板が突き刺さっていた。
そのまま幹治はフィリピンで治療を受けていたが、傷が悪化して化膿し、蛆がわいてきた。この状態ではフィリピンでは治療困難と判断され、幹治は病院船で台湾に向かうことになった。
病院船のなかで、幹治は別府航路でかつて一緒の船に乗っていたことがある安井と再会した。
安井は、病院船の船員となっていた。
懐かしい商船時代の話に、久しぶりに幹治の顔にも笑顔が浮かんだ。
「大丈夫です。台湾に行けばきっとよくなりますよ。
そしてけがの状態が落ち着いたら、日本行きの船に乗って帰りましょう。」
安井は幹治を元気づけた。
船が台湾沖に来たときだった。
突如米軍機に襲われ、病院船は撃沈された。
患者輸送を行う病院船は、国際条約に基づき攻撃してはいけないことになっていたが、当時の日本軍は、そういう病院船を輸送船にしていたため、多くの病院船が撃沈されたのだった。
幹治は、なんとか木につかまって、浮いて助けを待った。
安井も近くで浮いていた。
「幹治さん、大丈夫ですか?しっかりしてください。
日本でご家族が待っていらっしゃいますよ。
一緒に帰りましょう。」
安井は必死で声をかけ続けた。
幹治も、うん、うんと力なく頷きながら、必死で木にしがみついていた。
しかし化膿した足に海水が浸み込み、耐えがたい激痛の中、幹治は次第に気が遠くなっていった。
「しっかりしてください!
幹治さん、日本に帰るんでしょう、ご家族が待っているんでしょう」
安井は何度も叫んだが、幹治はその後目をつぶったままゆっくりと海に沈んでいった。
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