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高野山旅行 5【高野山奥の院-1)
高野山旅行2日目。
一体どんなところなのか、興味深々だった奥の院にとうとう行くことができました。
本当は早朝、まだ人がいないくらいの時間に行きたかったけれど、
朝の勤行があり、朝が苦手な二人だし、朝ごはんをゆっくり食べたい、早く行っても御朱印をもらう所は開いていない。10時30分の生身供(後述します)を見たい・・・などの理由で、宿坊を出たのは8時15分頃でした。
荷物は、宿坊で預かっていただきました。
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宿坊から奥の院入口(一の橋)までは徒歩5分少々。すでに日差しは暑い。
奥の院について、私のイメージは、色々な武将などのお墓がたくさんある、暗くてうっそうとした山の中。
激しい戦いをした武将同士のお墓がすぐ近くに並んでいる不思議なところ。
神聖な空気が立ち込めている・・・
果たしてどんなところなのでしょうか?
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奥の院の入口に到着しました。
ここから先は、木陰になりそうで、ちょっとほっとしました。
ワクワクドキドキです。
一の橋を渡ると、そこから先が奥の院です。
一の橋から行くのが正式な参拝とのことです。
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弘法大師さまは、お迎えにきてくださっているかしら・・・
奥の院とは、どんなところなのでしょう。
空海は、835年3月21日 62歳の時に、奥の院の燈籠堂の奥にある現在の大師御廟に入定され、即身成仏(人間が究極の悟りを開き、肉身のまま仏となること)を遂げられました。
弘法大師は、現在も生きていて、人々のために祈り続けていると信じられているのです。
したがって、奥の院は、今も弘法大師様がいらっしゃるところです。
今までの記事で、弘法大師の死後、だとか生きて完成を見ることができなかった、などと書いてしまいましたが、実際は「入定後」と書くのが正しいような気がします。
弘法大師様が生きている、ということから、現在も弘法大師のもとに1日2回白木の箱に入れられた食事が、僧侶によって運ばれます。
これを「生身供」といいます。
毎日6時と10時半に行われ、一般の人もその様子を見ることができるそうです。
出来れば神秘的な早朝6時、朝霧に包まれ、人気もまばらな中で執り行われる様を見たかったのですが、今回は無理でした。
さて、話を戻して、ここ一の橋から御廟までは、約2kmにわたって20万基を超える墓石、記念碑、慰霊碑が建ち並んでいます。
多くの武将や、著名人、企業、皇室の物もあります。
一体どうしてこんなに多くの人のお墓や供養塔があるのでしょうか?
一説によると、奥の院には弘法大師(空海)の廟(びょう)があり、56億7000万年後に弥勒菩薩と共に蘇るとされています。その瞬間に立ち会い、弘法大師の説法を聞けるようにと多くの人が、高野山奥の院には墓が設置したから。
その他にも、「死者の魂は高野山で弔えば、大師・空海の偉大な力によって極楽浄土へ行くことができる」と言われ、
空海が開山した高野山で眠れば必ず極楽浄土へいけるという信仰があったからとも言われています。
さて、一の橋から入ってすぐ、「奥州 仙台 伊達家墓所」と書かれた大きなお墓がありました。
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ちなみに伊達政宗公の供養塔は、もっと先にあります。
その先には、司馬遼太郎文学碑があります。
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司馬遼太郎の著作「高野山管見」の冒頭の部分だそうです。
たくさんのお墓や供養塔がありますが、有名な戦国武将や、名の知れた偉人以外もたくさんあって、一つ一つ見ていくには莫大な時間を要するので、目について、写真をとったものだけ紹介いたします。
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私の記事に、度々出てくる、静岡県袋井市にある真言宗のお寺です。
こういったお寺の供養塔もあちこちにあります。
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木立の中なので、気持ちよく歩けます。
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戦国武将らしい簡素な墓石です。
向かって左側が信玄公。表には恵林寺殿、裏面に天正元年(1573年)4月12日逝去 とあり
右側の勝頼公は、表に法泉寺殿、裏面に天正10年(1582年)3月11日逝去 と書かれているそうです。
私としたことが、すぐ近くにあった上杉謙信・景勝の霊廟を見落としてますわ!
江戸時代初期の建立で、重要文化財になっているようです。
武田信玄のお墓と違って、豪華な霊廟だったようです。
途中、大師の腰掛石なんてものもありました。
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地面から20センチほどの高さなのですが、周りの墓石も数十センチ埋まっている感じなので、昔は30センチくらいの高さがあったのかもしれません。
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榊原康政の墓所があります。タムリーですね。
大河ドラマ「どうする家康」で杉野遥亮君が演じてますね。
ばらかもん(ドラマ)にも出演中の杉野君、頑張ってますね〜❤️
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石田三成の墓所と、明智光秀の墓所は、すぐ近くにあります。
しかし、三成の墓は、道沿いにあり、光秀の墓は奥まったところの左奥にあります。
三成の墓は、五輪塔ですが、その中央の丸い石にはヒビが入っています。
見えますか?
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この亀裂は、何度修復しても亀裂が入るといいいます。
光秀の無念とか、信長の恨みとか言われますが、謀反人ということで、もともと割れた石を使ったとも言われます。
手前の「国家安全」と書かれた石が、光秀の本心だったようにも思います。
申し訳なさそうにある、光秀の墓所ですが、もし光秀が信長を討っていなかったら、信長は高野山を攻めようとしていたとのこと。
そういう意味では、高野山を救った人だったかもしれません。
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ようやく中間地点の中の橋まできました。
中の橋、正式名称は「手水橋」
平安時代には、この川で身を清めていたとそうです。
また、橋の下を流れる川は、三途の川を表しているとも言われます。
まだ先は長いのに、もう2000文字超えてしまいました。
いったいこの旅行記事、どこまで続くんでしょう・・・
続きは次回にいたします。
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