マジカフロスト・カインド・ガイド
#逆噴射小説ワークショップ
(7943字)
クルースは記憶に頼る。記憶の中の風景を手掛かりに、空間を歪めて道を開く。魔法のように。自身の肉体を手掛かりにすれば未知の場所へさえ至る。奇跡のように。
雪原に人血を蒔く。
大友ピンクはこの動作が好きだ。今この時だけは、子どもでも犯罪者でもない、一人の芸術家になれる。技巧の追求から離れ、重力が生む偶然を求め、人目のない雪山で倒錯的創作に没頭していられる。何事にも代えがたい崇高な一瞬だった。
実際は何もかも違う。
夜中だった。裂いた輸血袋から飛散した800mlの軌跡はほとんど目に見えなかった。ぺしゃっ と腑抜けな音を立てた血痕は、星明りのない雪の上では鮮血どころか黒い跡にしかならなかった。泥水でも同じだ。
だが手掛かりはできた。瞬間は終わった。
ピンクは踵を返した。白く寸胴な防寒着で雪を蹴り、大きく五歩、目印に置いたボストンバッグのそばで振り返る。
血痕の上には湯気が立ち、全裸の男が直立していた。その足は脛まで雪に埋もれていた。体は締まっているが弛んだ頬と目尻がみっともない、老けた男だった。
魔法の手順に加担するのは魔法を使ったことになるのかね。ピンクは手袋を外して拳銃を抜き、男の下腹に向けた。細身の自動拳銃。それでも小柄な手には余った。
男は銃口を見て驚き、雪原を見回して驚き、両手で股間を隠し大きく息を吸った。採血した肘窩から流れ出る血が凍るように止まった。
「なるほど、魔法凍土だ。空気が違う」
男の吐息の影が三つ、ゆっくりと下に流れた。雪と同化して消える。男はその様を見下ろして、静かに、大きく笑った。
固めた襟とフードの間でピンクの眉間に皺が寄る。クルースめ。寒くないはずはない。だがこの状況で彼らはいつも笑う。クルースの睫毛は凍らず、歯が震えることもない。防寒具は動きづらいが、怪物を羨む気にもなれなかった。
男は立ち尽くしている。ただ首だけを四方八方に回し続け、そのたびに笑顔を深くしている。時折頷き、何が見えるのか目を細め、ほっ と口を開けて息を吐き、大きく息を吸い、また笑った。正気の挙動ではない。ピンクは引き金を引いた。轟音。足下で雪が弾けてようやく、男はピンクに目を戻した。その顔には変わらず笑みが張り付いていた。
「極楽だね、これは」
「確認はもう良いですね」ピンクはボストンバックを前に放り投げた。「服やら何やら、あなたが用意した荷物です。必要なのかは知りませんが、人に会うこともあるんじゃないですか」
男は雪を蹴ってバッグに歩み寄り、持ち上げて体を隠した。
「ありがとう。呼ばれたときは真夜中だったが、今はまだ4月30日かな」
「日付ですか。とっくに変わっているはずです。この地点でも32倍は速いので」
ピンクは経験則を口にした。魔法凍土の時間経過は狂っている。男が現れてから5分、ピンクが来てからは8分が過ぎていた。外ではそろそろ日が昇る。無駄話に付き合う暇はない。ピンクは節度を守った。「それがどうかしましたか」
「いや、周期がね」
男は闇の中の地平線に見えるものがあるかのように視線を上げた。ピンクは節度を守った。
「うん、大丈夫そうだ。改めて、ありがとう。渡したい物がある」
「チップは結構です。援助もやってません。今すぐ、約束の通り、私を安全な位置に戻していただくことが一番のお礼になります」
「そうだね。クルースは他のクルースを飛ばせない。記憶の混線に耐えられない。そしてクルースは、一度ここに入れば戻ることができない。実感したよ。だから渡航には君が必要だった。だがクルースでない君は、誰かが送らなければ出られない」
男は自分の口に手を入れた。えずきながら取り出したのは小さな鍵だった。指が涎の糸を引く。節度には限界があった。
「最悪だ」
「申し訳ない。だが成功して良かった」
男はバッグのナイロンで鍵を拭き、衛生観念を証明するように見せつけ、ピンクに向けて投げた。拳銃で叩き落とそうとしたピンクは、空中の鍵と共にその場から消えた。
ピンクは木製のベンチに腰掛けている。
空は濃く青く広い。左手に太陽の白、右手に入道雲の白。わざとらしいほどありふれた夏の朝。まるで用意されたかのような。折良く蝉が騒ぎ始めている。
正面に郵便ポストがあった。視界の中で浮いて見えるほど鮮やかに赤く、唯一、神経質な直線で象られた立方体。
そこは公園の歩道に見えた。それもかなり広大な公園だ。左右に延びる道は果てが見えず、どこで曲がりどう分かれているのか見当もつかない。何もかも知るところではない。ピンクは気付けばそこに腰掛けていた。
静かだった。蝉の声は暴雨風のように耳を圧しているが、その中には人の喧噪がなかった。歩道に他人はいない。離れて並ぶベンチはどれも空いている。人のために整備された公園は、空っぽだった。枝の揺れる音。茂みから現れた黒猫は、ピンクを一瞥すると気ままに毛繕いを始めた。それは良い。人混みに送り込まれれば騒ぎになる。男は約束を守った。
あの男、あのクルースが、この場所を思い出して道を開き、ピンクを放り込んだ。顛末はそれだけだ。
即座の危険は無いと見て、ピンクはまだ座っていることにした。クルースに飛ばされると気分が悪くなる。体験したはずのない情景が頭の中に入り込み、どこまでが自分の記憶なのか曖昧になる。ろくに知らないクルースの手に掛かると尚更で、視界まで揺れている気がした。
症状はしばらくすれば落ち着く。自他の見分けがつくようになる。ピンクにはその知識があった。それでも記憶が正しく戻るという確証はなかった。極寒の地に着くのでもなければ裸になる方がマシだ。ピンクは寸前の状況を思い起こした。当然、空間は歪まない。寒さに震えることもない。何もかもが逆だった。
暑すぎる。顔に当たる日の光はまだ穏やかだが、コートの中はサウナと化していた。痩せる。いや水分が抜ける。ピンクは銃をベンチに置き、コートを開いた。湯気が上がる。シャツとトレッキングパンツ、さらには薄いボディバッグまでが体に張り付いていた。
ピンクは立ち上がり、バッグに手を掛け、しかしその手を下ろした。
正面に郵便ポストがある。視界の中で浮いて見えるほど鮮やかに赤く、唯一、神経質な直線で象られた立方体。それは確かにそこにある。最初に見たときと同じ位置に。違うのは他だ。
立ち並ぶ木々の形が変わっている。延びる枝の角度が、葉を透かす光が、象られる影の形が違う。すぐそこにあった木が遠のき、離れていた木が近づいている。移動している。
ピンクは見間違いかと思い、次に記憶違いを疑い、風のいたずら、さらには幻覚かと考えた。クルースに送られた酔いが視覚に来たのか。確かに気分は悪い。だが違う。目をこらせば今この瞬間も生物のように位置を入れ替え続けている風景にこそ、ピンクの三半規管は悲鳴を上げていた。
風景の中で、ポストとベンチの位置関係だけが変わっていない。
クルースの男はこの異常な空間にあって、ベンチから見るポストの存在だけに意識を集中したのだろう。他の事物が見えなくなるほどに。記憶する風景が実在しなければクルースの力は機能しない。覚えた景色が変わってしまえば手掛かりにならない。これでは覚えることもできない。
クルースを軟禁していたのか。ピンクはその思い付きに単純な驚きを覚えた。そんなことが可能だとは考えたこともなかった。だがこの仕組みだけでは足りない。クルースが逃げようと思えば外の風景に頼れば済む話だ。何かがおかしい。思考が吐き気に圧迫されている。
俯いたピンクは足下に光る物を見つけた。男が投げて寄越した小さな鍵だった。
今すぐ脱出するべきだ。脳からの警告が胸に響く。二度と入ることはできないだろうが、それで何の問題がある。勝手なクルースの頼みが宙に消えるだけだ。ピンクは鍵をつまみ上げた。
前だけを見て歩く。風景を視界から排除する。まっすぐに近づいて見ればポストには投函口が無く、ただ前面に鍵穴と把手だけがあった。挿した鍵はピタリと嵌まり、回った。
形だけのポストの中には、また別の立方体が収まっていた。宝箱と呼ぶには質素が過ぎるブルーグレーの外観。それは肩掛けのクーラーボックスだった。ピンクはその中身を直観した。
「両手を上に」
声は背後から起こった。ピンクは踵を浮かせて驚き、しかし無造作に振り向いた。
揃いのポロシャツから逞しい腕を伸ばす男が、左右から二人、ピンクに拳銃──銃口の開いたスタンガンを向けていた。公園の警備員というには物々しい。汗が光る二つの顔を見比べ、ピンクは右手の一人に歩み寄った。
「無意味な警告、心中お察しします。クルースに危害は加えられない。あなたの買う怒りで世界が滅ぶかも知れない」
ピンクがスタンガンを掴む。男は重さに耐えかねたように銃把を手放した。ピンクはその瞳を見上げて頷いた。
「自分の足で消えてください。私もすぐに立ち去ります」
男は安堵の息を吐いた。熱く、やけに甘い呼気が顔に掛かったが、ピンクは構わなかった。左手の一人も銃を下ろしている。ピンクと目が合うと、いくらか若い男は子どものように躊躇いながら口を開いた。
「サリに何かありましたか」
「サリ?」
「ここに住んでいた歪能者──クルースです。我々より年配の男で。ご存知では?」
ピンクは反芻した。あれはそんな名前だったか。事前に聞いたはずだが思い出せなかった。ピンクは渡されたスタンガンを持ち直し、遠い一人、声を掛けてきた男に発砲した。長く放置されたアルミ缶のプルタブを引くような乾いた音。投網されたワイヤーが腹に張り付き、男は膝から崩れ落ちた。全員の視界の外で黒猫が走り去る。
残った男は同僚に駆け寄るように一歩踏み出し、しかし止まり、ピンクに向き直った。
「教えてはいただけませんか、サリのことを」
ピンクはスタンガンを放り捨てた。カートリッジはなく、装填の仕方も知らなかった。
「そこの人はただの怪我で済む。親切を汲んで欲しいところですが、まだこだわりますか」
「すみません」視線を地面に落としながら、男は立ち去らなかった。
「クルースが失踪している、と耳にしました。噂の域ではなく、東京の対策室から下りてきた情報です。他でもないサリも話していた。彼の位置情報がここから、いや地球上から消えたのが昨夜。そして今朝になってあなたが現れた。知りたいのです。何が起こったのか、サリの考えはどうなのか。誰にも、我々にすら告げずに消えるような男ではなかった」
「警備を強化するべきでしたね」
「歪能者の移動を止めろと? どうやって?」
男はピンクと目を合わせ、またすぐに視線を落とした。その一瞬、その瞳の奥に確かな憤怒があった。ピンクは不意に男の名前を思い出した。この景色の中で、この男と話したことがある。混濁した記憶を峻別することは容易だったが、情報までは失われなかった。
「──坂口さん。こちらからも聞きたいことがあります。交換条件と思われても困りますが」
「何なりと、ご自由に」坂口は驚きながら肩を竦めた。最初から何もこだわっていないかのように。ピンクはベンチまでの距離──およそ3mを目測し、対岸に立つ目の前のポストを指さした。
「これは何?」
「ここの業務は、主として国防に関する機密情報の転送でした。歪能は他のあらゆる伝達手段より安全で早い。これは転送する資料をサリが受け取るための物で、つまりはポストです。ご覧の通り」
「直接渡せばもっと早い」
「歪能規制法をお忘れですね。空間歪能の発動には本人を中心とした2km範囲に人がいない状況を確立する必要が」
「なら、いま入ってるのもその類?」
「──内容に関しては、当然、我々には知る由もありません。それに今日は投函もしていません。サリの不在は昨夜すでに分かっていましたから」
ピンクが顎を振る。坂口は僅かに躊躇いながらポストを開き、中のクーラーボックスを引き出した。坂口のガタイを引いてもさしたる重量ではない。箱を丁重に地面に置き、坂口はもう一度、今度は困惑の目でピンクの顔を見た。ピンクはもう一度顎を振った。
「どうぞ」「はい」
箱の中には輸血袋が二つ並んでいた。ピンクは直観の的中に満足し、その意味するところ、サリの意思に辟易した。自分を追って送れとでも言うのなら、虫が良すぎる。これでは身元も分からない。
「何も知らないと言いましたね。あなたはこれを入れていないとも」
「嘘偽りなく」
ではもう用はない。ピンクは頷いた。「箱を調べて頂けますか。発信器、爆弾なんかも困りますね。サリさんに頼まれましたから、一旦は引き受けます」ベンチに向かう。そこに置いた拳銃は消えていた。
「親切の形なら、ここに」
銃は坂口の手の上にあった。引き金に指は掛かっていない。銃口は坂口自身に向いている。ピンクに差し出し、委ねるように。だが坂口の目は雄弁すぎるほどに警告を示していた。
「情報を得るために加減が必要だというのは分かります。そのためには単純な脅威が良い。理屈は通っている」
ピンクは細く長く息を吐いた。彼女自身への失望がそうさせた。
「得体の知れない血を守って、守ろうとして無駄に死にますか」
坂口は薄い笑みを浮かべた。それは紛れもない嘲笑だった。
「血はどうとでも。だがこの銃、これはサリが持っていた物だ。常に身に付けていた。彼が消え、彼の銃が君と共に戻ってきた。もう一度聞く。サリに何をした?」
「お教えしますよ」
ピンクは後ろ腰からナイフを抜いた。小さな掌に収まる折りたたみナイフ。坂口は咄嗟に銃を構え、恥じるように逸らした。
「やめなさい。度胸は認めるが、君は歪能者じゃない」
坂口はさらに銃口を振り、真横に向けて引き金を引いた。轟音が反響する。凍土で放ったときとは比較にならないほどに。ピンクは奥歯を噛み、天井を仰いだ。目を眩ます太陽は確かにそこにある、ように見えた。
「ここは地下だ。歪能者の記憶を防ぐために構造も変化し続けている。人はもちろん歪能者が偶然辿り着くこともあり得ない。あり得るとすれば血痕飛躍、だが君の格好はまともだ。唯一の住人であるサリが招く以外に侵入する手段はないが、歪能者は自分以外の歪能者を送れない。答えは出ている。怪我をする前に話してくれないか」
「マジカフロストです」
ピンクは一度言葉を切った。
「ここではないどこか、クルースだけを生かす魔法凍土。サリさんはそこにいます。彼に頼まれ、私たちが送りました。囚われのクルースが理想郷に逃れた。めでたしめでたし」
ピンクはナイフを逆手に持ち、自らの胸を刺し開いた。鮮血が地面に落ち、血痕に変わる。
ピンクはボディバッグから滴る残血に構わず、保冷剤をこぼしながら、ベンチのコートを拾った。坂口にはもう見向きもしなかった。
血痕が消える。その上に一人の少女が立っていた。ピンクは現れたクルースの前身をコートで覆った。
「暑苦しいけど」
「良いから着なさい、マッキ」
少女、大友マッキは丸い顔をこれでもかと顰めた。その背丈はピンクと変わらず、振る舞いはさらに幼いが、坂口は思わず後ずさった。マッキはその音で存在に気付いたように驚いて見せた。
「どうも。おじさんは何?」
「降伏します。どうか命だけは」
坂口は文字通りひれ伏した。ゆっくり両膝をつき、拳銃を地面に置く。指が離れた瞬間、銃は地面から消えた。
「それは難しいよ」
顔を上げた坂口は自分に降ってくる拳銃を見た。衝突の寸前でまた消え、少し高い位置に現れ、また落下し、消え、またもとの高さ──マッキの目の前に現れる。落下する拳銃が徐々に強くなる風だけを坂口に浴びせ続ける。坂口は思わず目を閉じた。突風が髪を、体を揺らす。意地になって目を開けるとマッキは仰向けに寝転んでいた。
「歪能──」
「そ。でも難しいのよこれが。焦点を近くにすればこういう、覚えてないところでもできるんだけど、たぶん動体視力の限界。リフティングみたいだけど、ほら、どんどん加速しちゃうでしょ。理科で習ったよね」
少し手を伸ばせばその細首を折れる。それでも坂口は指先一つ動かせなかった。
ピンクは二人を無視してクーラーボックスに歩み寄り、覗き込んだ。輸血袋は二つ。量は十分にあるが、見た目で鮮度は分からない。劣化していればクルースには使えない。そもそも無作為に送り込むことはできないが──ピンクはクーラーボックスの蓋を閉じ、肩に掛けた。
「遊んでんじゃないの。銃はその人に返しなさい。壊さずに」
予想だにしない言葉に坂口が身動ぎすると、ポカンと口を開けたマッキと目が合った。
「ヤバい、それはもっとムズい。向きは変えられない。落としたら絶対壊れる。アイデア募集」
坂口は目を回しながら腕を伸ばし、木々の向こうを指さした。
「来る途中に池があった。まだ遠くには行ってないはず」
「なに言ってんの? でも採用」
マッキは立ち上がり、坂口の指さす先へ駆け出した。その眼前に出現し続ける拳銃は、引き延ばされた黒い球体に見えた。
「乱暴な子で、すみません」
ピンクはマッキの行方を目で追いながら言った。坂口は立ち上がれないまま、大きく息を吐いた。
「私は助けられた訳だ」
「銃のことですよ。あの子も別に人を殺すつもりはない、と思います」
爆発のような轟音、並木の向こうで巨大な水柱が上がった。何か言おうとした坂口の声は吹き飛んだ。
マッキは歩道から戻ってきた。頭から水と水草にまみれ、裸足は足首まで泥と血に汚れていた。ピンクは咄嗟に駆け寄り、ベンチまで肩を貸した。腰を下ろしたマッキの顔に苦痛の様子はなく、むしろ楽しげに、達成感に満ちた笑みを浮かべていた。
「何ここ? 飛べないし迷うし。ウケる。でも銃はオッケー。あ、でもでも見つかるかな」
「見つけます」
今度は坂口がふらつきながら立ち上がり、入れ替わりに池を目指した。年老いた犬がそれでも飼い主と遊ぶように。ピンクは節度を守った。マッキは背中を見送りながら首を傾げた。
「犬みたい。ピンクが貰った奴でしょ、あれ。大事な物だった的なこと? じゃあ悪いことしちゃったな」
「そうね。撃たれそうだったし、謝る筋合いはないけど。返してあげよう」
ピンクは大きく息を吐き、首を振った。虚構と言われても空は空にしか見えなかった。
「変なとこ。あんたはボロボロ。私も疲れたし、お腹空いた。帰ろう」
「口封じとかしないの?」
「絶対に嫌。怖いこと言わないで」
「命拾いだね」マッキは転がるもう一人を見下ろした。男は微動だにしない。マッキはすぐに視線を戻した。「その箱は?」
「家で話すから」
「あーい」
二人の少女は消えた。あとには開け放たれたポストと、気絶した男が一人残された。
風が木々の緑を揺らす。黒猫が日向に戻り、毛繕いを始める。唐突に男が起き上がり、左右を見回した。池の方向にあたりをつけて歩き出す。
坂口は池の畔に草を割って座り込んでいた。その足は腰まで水に濡れていた。池の広さは歪に30m四方。数匹の鯉が腹を見せて漂っている。普段、底まで見えることはなくとも穏やかだった水が、今は濁りきっていた。
若い男は坂口の隣に立った。
「どうすか、グチさん。探せそうですか」
「泥が落ち着くのを待つ。ダメなら底をさらう」
「手伝いますよ」
坂口は顔を上げず、水面を睨み続けた。
「協力者だった歪能者が失踪。謎の歪能者に襲撃されて取り逃がす。酷い現場だ」
「仕事やめたくなりますね」
「クビだよ。私も君も。東京に呼ばれて、消えた歪能者について事情聴取を受けて、施設は閉鎖。めでたしめでたし、だ」
「そしたら、サリ園長を探しに行きましょう」
坂口は立ち上がった。水を吸った靴が無様な音を立てる。
「どちらか一人は残るべきだな。あの子の話が事実だとして、サリが戻るとすればここ以外にない」 【続く】